第505号 全文掲載

2011年9月10日 (土) ─

◆今回は皆様からご要望の強かった、私の代表選挙における演説を全文掲載いたします。

 代表選候補者の衆議院議員馬淵澄夫でございます。 今日は、この代表選挙、投票日、最後の訴えをさせて頂きます。 

 私(わたくし)自身、6月より強い意欲を示し、皆様方にお伝えをしてきた政策の一端、その全てに対する想いを、想いの丈をお伝えできたらと思っております。

 私が政治を志した…志したといえば少し大げさに聞こえるかもしれない、意識をしたのは、39年前であります。

 1972年の7月5日、水曜日。
梅雨明けぬまだ蒸し暑い校舎の一角。教室で先生が授業を止めました。
「おい、皆、ちょっと注目や、テレビつけるで」

 当時はまだ、白黒テレビ。蓋を開けるような形でスイッチを入れました。

 そこに映し出されたのは、自民党総裁選挙であります。

 食い入るように見つめる担任の先生の姿を見ながら、「何やら大変なことが、起きそうだ」そんな想いで生徒全員画面を見ていました。
おじさん達が思い思いにそれこそ、語っておられる内容はよくわかりませんでしたが、大変なその熱意に気圧される思いでした。

 この総裁選挙、
「第一回投票、田中角栄君、156票、福田赳夫君、150票、大平正芳君、101票、三木武夫君、69票、過半数に至らず決選投票となります。」

 いやが応にも緊張が高まりました。そして二回目の決選投票。
「田中角栄君282票!」
福田赳夫氏に100票以上の差をつけて、圧勝されました。

 その瞬間に第6代自民党総裁、第64代内閣総理大臣の誕生となりました。

先生は嬉しそうにテレビを消して
「日本の歴史が変わった。新潟の田舎から小学校しか出てへん人が、会社を興し、政治家になり、総理大臣にまで上り詰めた。今太閤やで。」
こうおっしゃいました。
「日本列島改造論を掲げてな、『コンピューター付ブルドーザー』って言われてはんねん。」 

 この言葉を聞いて、子供ながらに、この田中角栄さんの姿に、えも言えない位のエネルギーとバイタリティーを感じました。
「すごいな!自分もいつかは田中角栄さんみたいに政治家になって、総理大臣になって、この国を動かしてゆく!」
…政治のことがわかっているわけではありません。野球少年が王・長島に憧れるように、ただただ、自分の中での、ヒーロー像として描いていたのかもしれません。

 小学校6年生の、少年時代の私の姿でした。

 そんな私は、迷わずこの田中角栄さんの道を歩みたい、そう思いました。

 一方、この田中角栄さんに見たのは、政治家像だけではなく、ニッポンのお父さん、ニッポンの親父、父親像だったと思っています。

 翻って私の父は、陸軍士官学校、軍人として生きることを自らの運命(さだめ)としておりました。終戦になり、本人は不満であったろうと思います。職業軍人として生きることができなくなり、サラリーマンをし、母と出会い、私が生まれました。いつもお酒を飲むと「世が世なら、俺は士官だ、将校だ」、このように口にしていた。

 自ら未来を語ってもらえない父には反発も感じました。そんな思いが、私がより一層田中角栄さんへの憧れを強めていった理由かもしれません。

 迷わずに理系に進み、土木に進み、建設会社に勤めました。「土建屋として身を立てて、政治家になる!」

 しかし、そう簡単には事は進まず、私は建設会社を辞めた後、実業家の方との出会いがあり、そこで修行をし、政治の世界からは遠ざかってゆきました。

 しかし、数々の経営を学び、39歳のときに、初めて選挙に挑戦することができました。民主党の公認候補としてです。ようやく辿り着いた、そう思った瞬間、その選挙では落選を致しました。
以来「何としてでも、国会へ。」その思いで私自身やっと2003年初当選を果たしました。

 この初当選後すぐに行ったのは、国会に残っている田中角栄さんの議事録の検索でした。1220篇の議事録が残っています。全てを読み下し、正に戦後の復興の中で、地方から、地域から、この国を、もう一度、どこに住まいをしても、安心して、豊かな暮らしができる国にしたいという、そのほとばしり出るような想いが、議事録に詰まっていました。

 そして、もう1つ私の心に残ったことは、その田中角栄さんの言葉の中にあった「自分が望む社会とは、仕事を終えれば、水と緑の豊かな家に帰り、冷奴で一杯酒を飲み、女房子供と盆踊りに出かける、孫やおじいちゃんが一緒に楽しく暮らせる環境。こんな豊かな国を作りたい。」でした。

 これこそが、田中角栄さんが語ったこの国の姿を表す言葉でもありました。まさに、私の政治の使命である、家族を守ることが第一、ということを、生活を守ることが政治の使命であるということが、その言葉の中に込められていました。

 私の想いは…、今は民主党、当然当時と党は違えど、あの高度経済成長時代にそれこそ戦後の復興期から、地方が虐げられたと言われていた時代から、全国に10の都市を作り、どこに住まいをしても、どの世代も、どの人たちも、ささやかな喜びと、慎ましやかな暮らしの中で、豊かさを知ることができる国にしたい、こんな思いを私は、まさに自分の思いとして重ねることができたのです。

 翻って私は6人の子供と、私の両親、家内の両親と暮らす12人家族で暮らして参りました。大家族は始めから生まれたわけではありません。私の母がアルツハイマーになり、そして義理の父は半身の障害をもち、やがて寝たきりになってゆく。両方の親の介護をどうにかしなければならない状況の中で「共に我慢をしてもらえませんか?」そうお願いをして、義理の両親には奈良に来て頂きました。1つ屋根の下で暮らす、12人家族。決して賑わいだけで楽しいばかりではありません。様々なぶつかり合いもある。でも、少しの我慢をすることによってお互いがお互いを慈しみあって分かち合うことを知ることができました。

 私の、この、政治の原点である、田中角栄さん、そして、一方で政治の使命である家族観、これこそが、今、私達が、政治家が、命を掛けて守らなければならないという想いをこの場で皆様方にしっかりとお伝えをして行きたい、そう思っています。

 高度経済成長では良かれとされた、それこそ国土の均衡ある発展、120本に及ぶ「角栄法」、この法律に私たちは野党時代、向き合うことになりました。
確かに高度経済成長ではよかったかもしれないが、低成長時代、改めて私達は緩やかな成長の中で、見直していかなければならないことが多々あった。政官業の癒着、あるいは、際限なき裁量行政、さらには官僚の無責任な、不作為による無責任の連鎖…。

 こうしたものを断ち切らねばならない。2005年、私は耐震偽装問題で「角栄法」の1本である建築基準法、これに向き合うことになりました。2008年、道路問題ではそれこそ国家の基本とされた、国土の創造・発展の中のど真ん中の道路問題に私は切り込むことになった。改めて、続けて行くことができないその仕組みを、私たち民主党は新しい時代の政治として新たな形として示すことが使命だと、そのように感じたのであります。

 そして、その想いを持って政権交代を果たしました。2年間を経て、多くの反省をしなければならないことも指摘をされています。しかし一方で、私達は今、この3月11日に起きた「国難」とも呼べる震災に向きあわなければならない時が来ています。この震災は1000の集落を消失させ、50の市町村が津波に飲まれ、さらには2万人を超える行方不明者や死者の方々、そして今も、避難をされている約7万人の方々、こうした方々をしっかりと守らなければならない、私達がそれこそ、命を賭けて守らねばならないことであります。従って、まず、新たな政権はこの震災の復興と、そして原発の収束に向き合って、逃げずに国の責任としてこれをしっかりと遂行してゆく、その覚悟が問われます。

 3月26日、発災後2週間強を経て私は原発対応の補佐官として官邸に入りました。陸・海・空で漏れている放射能、目に見えぬ恐怖、福島の皆さん方が家族の絆を失いながらも地域を離れ、苦しんでいるこの放射能の恐怖を私たちは断ち切らねばならない、全力で取り組まねばならないとして、私は様々な施策を打ち出しました。

 6月11日、その指揮監督をしてきた責任者として福島第一原発に入域をし、第4号機原子炉建屋に入室を致しました。20分という短い時間ではありましたが、タイベックという防護服を着、マスクをしながらも、光も音もない、その原子炉建屋の中で、私の指示した、耐震補強工事の強度発現の確認を行いながら、目に見えぬ恐怖に立ち向かう、そのことを私は実感を持って経験しました。もちろん、あの水素爆発当初の、そのさなかに、勇猛果敢に取り組んだ消防士・警察官・自衛官の皆さんの足元にも及ばないが、私達はまさに、こうした危機に対して、命を掛けて取り組むということを示していかなければならない、と思っています。

 震災の復興、原発の収束、これを第一に掲げなければなりません。その上で、家族の暮らしを守るにはもう1つ大切なことがある。…「メシを食う」ということです。「メシのタネ」が必要なんです。家族の暮らしを守るための、その、経済・景気の回復が第一の仕事。私はデフレ脱却、15年に及ぶこの長期のデフレを解消することを第一に掲げたい。今日(こんにち)まで残念ながら無策としか言いようがなかったこの15年間を、改めて私達は反省をし、徹底的なデフレ脱却のための経済政策として、財政出動・金融緩和、この両面を実行しなければなりません。こうして、私は皆さんの代表として、この国を、しっかりと「国民の生活を守る」というところから前に進めて参りたいと願っています。

 今日お集まりの先輩諸氏、同僚、そして後輩の議員の皆様方も、どうかもう一度、政治に取り組もうと思われた瞬間を思い出して頂きたい。地方の政治、国の政治、自らを捨ててまでもこの国のために、この地域のために奉じたい、と思われた瞬間を思い出していただきたい。 

 いま民主党は「内向きではないか?」と問われています。いま民主党は「もはや国民を見ていないのではないか」と問われています。今こそしがらみを断ち切ってこの国の政治を変えるときなんです。当選3回、議員活動7年9ヶ月の、そんな私がこうして立候補することに対して「思い上がりも甚だしい」あるいは「勘違いしてるんではないか」というお叱りも頂いています。しかし私は、民主党こそが、そのような一切のしがらみを断ち切って、国民の暮らしを守る、生活を第一に、国民の目線に立ち国民に向かって発言ができ、行動ができる政党だと信じています。決断と実行。短い議員活動ではありますが、私には企業の経営の経験がある。全ての人たちの力を発揮させる、その自らの経験を以って、一丸となってこの政権運営に取り組んでゆく覚悟でございます。

 どうか議員諸氏の皆様方、先輩のお力を借り、あるいは、同僚や後輩議員の皆様のそのご助言を頂き、ともに力を合わせて全党一丸となって、この国をしがらみのない、公平で、私たちが訴え続けてきた、誰もが自らの選択として自立でき、そして慈しみあえる国に変えて行こうではありませんか!その思いをお伝えして、私の皆様への訴えとさせて頂きます。 ご清聴、ありがとうございました。(了)

第505号 全文掲載