第752号 骨太の「憲法」論議
来月の民進党代表選と来るべき解散総選挙では、憲法のあり方が大きな争点となることが予想されます。
現状の憲法論議は、政府の改憲論議に引きずられ、改憲の是非ばかりがクローズアップされています。しかし、本来真っ先に行われるべきは、我が国の社会的な価値観や規範と照らし合わせながら、「憲法とは何ぞや?」という根源的な問いに向き合うことです。
◆革命の産物としての憲法
そもそも、近代の憲法には、欧米諸国で、封建国家から民主革命を経て、議会制民主国家へと変わりゆく過程で、権力を抑制し、歴史の分断や統治の非連続を補う根本規範として制定されたという「革命の産物」としての側面があります。
国家を「人工国家」と「自然国家」に分類するならば、このような意味での憲法は「人工国家」を創る仕組みの一部として位置づけられてきたと言えます。
わが国の明治憲法も、近代国家として生まれ変わるために、国王大権と議会制を併存させたドイツ憲法を参考にして制定されたもので、まさに明治維新という「革命」の産物でした。
◆不文の憲法規範の重要性
こうした「人工国家」の仕組みとしての憲法の存在や、フランス革命やアメリカの独立戦争など、民主化の流れにおいて、憲法や独立宣言が必要不可欠であったことは理解します。
しかし、国家としての理念、国民の価値観が、成文化された憲法のみによって規定されるという考え方には違和感を覚えます。
現にイギリスは、成文憲法を持っていませんが、伝統的価値観を基礎とし、王権を存続させたまま、議会決議や裁判所の判例、国際条約、慣習等の中の国家の性格を規定するものの集合体を不文の憲法とみなしています。
長い歴史の歩みや目に見えぬ価値を守り、「自然国家」としての成り立ちを持つ我が国でも、本来こうした不文のままの価値観を、憲法(規範)として位置づけるべきだったのではないかと私は考えます。
◆「価値観」の議論をすべき
我が国には、2千数百年に及ぶ歴史の中で受け継がれてきた「共生」や、「調和」と「順応」といった概念があり、さらにそれを言葉で表現することはなくても後世に伝えてきた、「言挙げせぬ国」としての価値の伝承、などの歴史的規範があります。今でもこうした文章化されていない規範・概念が、現行憲法を内包する価値観として国民の中にあることは、再検証されてしかるべきです。
人工的な「国家」を作りだすには自ずと限界があります。だからこそ、短絡的に改正という「革命」に走るのではなく、こうした価値観の下で現行憲法をどのように捉えるかが重要なのです。
先人たちから引き継いだものを大切にしながら未来を創る、そうした立場から考えれば、矮小化された憲法改正議論に陥ることなく、私たち、そして我が国がどのような価値観を大切にするか、という国家としての「国体」を共有する議論ができるはずです。こうした骨太の憲法議論を行っていきたいと考えます。(了)
スタッフ日記「夏の日の苦い思い出」
先日、都内で行われた花火大会に行きました。間近で上がる花火に感激しましたが、広い河川敷を埋め尽くす人だかりには花火以上に驚きました。
このような大勢の人が集まるイベントで参加者(特に女性)を困らせるもの、それがトイレでしょう。「待っていて我慢できるのかな…」とよく感じます。というのも私は高校時代、恐ろしい経験をしたのです。
夏の日の雨の朝のことでした。自宅から駅へ向かっている途中、トイレに行きたくなってしまいました。
道中でトイレがあるのは、ルートから少し離れているコンビニのみ。何とか駅まで我慢しようとしましたが、距離的にムリと判断し、コンビニへ向かいました。
切迫していく腹痛に、「コンビニまで無事に行けるだろうか、もし着いたとしても個室が空いているだろうか…」という不安がよぎります。降りしきる雨の中、コンビニまでの道のりがいつもの2倍ぐらいに感じられました。
それでも必死に自分を落ち着かせながらコンビニに到着。そしてトイレを見ると、幸いにも個室が空いていました!何とか難を逃れることができたこのときの安堵感は、言葉では表せません。
しかしピンチは続きます。駅までまだ距離があるのに、時間は遅刻ギリギリ。それでも3年間皆勤を目指す私に諦めるという選択肢はありません。駅までの道のりを猛ダッシュ!執念で電車に飛び乗ることができました。
その後、私は無事3年間皆勤を達成できましたが、高校3年間で最大の遅刻のピンチだったこの出来事は今でも忘れ得ぬ思い出です。(トシマロ)