第649号 責任不在の原発再稼動
16日、原子力規制委員会(規制委)が、九州電力川内原発1、2号機について、新規制基準を満たすとする事実上の合格証「審査書案」を了承しました。
◆変わらぬ電力会社の意識
当初、再稼動の1番手を争っていたのは、九電川内原発と関電大飯原発でした。審査の優先順位を決めたのは、地震想定です。九電は、想定する揺れの大きさを表す「基準地震動」の値を、540ガルから620ガルに引き上げる一方、関電は、想定される震源の深さを規制委の指摘よりも甘く見積もり、結果として、九電川内原発が優先審査の対象となりました。
では、九電が安全意識の点で、関電より優れていたと言えるのかというと必ずしもそうとは言いきれません。電力会社は、地震の想定をめぐり、2つの壁に悩まされます。1つは、あまりに大きい揺れを想定すると、その対策工事の費用・時間が膨大になること、一方で、甘い想定では、規制委を説得することができないことです。18日の朝日新聞の報道によると、幹部の話として、九電は、規制委を納得させ、かつ、対策のための追加工事に無理のない「落としどころ」として「620」という値を選んだとされています。これが事実とすれば、電力会社の安全意識は、震災前と何ら変わっていないと言えます。
震災前、福島第一原発は、建設当時想定していた津波の高さ(約3m)と、建設に必要な掘削費等の経済的な観点から、海水ポンプを海面から4m、主要建屋を海面から10mとした結果、津波の浸水による全電源喪失に至り、未曽有の原発事故を起こしました。安全を最優先すべき事項に関して、経済的な観点を入れ、「落としどころ」で判断するやり方は極めて危険です。今回も、基準そのものが厳しくなったにせよ、その思考方法は、何ら変わっていないのではないかと危惧します。
新規制基準を満たすことは、必ずしも「安全」を担保するものではありません。規制委の田中委員長も、「新基準の適合はみているが、安全とは私は申し上げない」と述べています。地震の想定という科学的にも限界がある分野で、絶対はありません。ゼロリスクと言えない以上、「想定外」を想定した対策や意識が求められます。それこそが福島原発事故の教訓です。
◆再稼動は本来「政治判断」
安倍政権は、再稼動の審査を行うのは規制委であり、再稼動は事業主の判断、との態度をとっています。つまり、安倍政権として、再稼動について政治判断はしないというスタンスです。
しかし、規制委の審査は、規制基準に適合しているかという点に限られ、安全性の審査を行っている訳ではありません。また、想定に「絶対」はない以上、基準を厳しくしてもリスクは残ります。そこでは、どの程度のリスクの受忍を国民に求めるかという極めて政治的な判断が介在します。さらに、事故の際の住民避難は、規制委の審査の対象外です。つまり、再稼動は、本来、政治判断そのものです。
安倍政権は、原発の政治問題化を避けていますが、再稼動が必要と考えるのであれば、リスクも含めて、国民にきちんと説明し納得を得るのが政治の役割です。安倍政権は、自らの責任を明確にし、この問題に逃げずに向き合うべきです。(了)
スタッフ日記「滋賀の思い出」
7月13日の滋賀県知事選で三日月大造候補が当選しました。
今回も馬淵事務所は全力応援でした。私もスギちゃん、シズちゃんと約1カ月間滋賀に常駐し、直射日光に負けず毎日外に出て活動していました。
私は滋賀大学教育学部出身ですが、卒業後一度も母校に行った事はなく、まさか10年ぶりにこんな形で戻ってくることになろうとは思ってもみませんでした。
しかし、最寄駅は別の駅と見まがうほど変わっており、定食屋、喫茶店、ラーメン屋、ボーリング場、カラオケ店など、よく行った場所が片っ端から潰れていたので、違う意味で驚きました。
ただ、新しくなっていた大学の正門前に立つと、バスケ部に所属して「情熱と勢いだけは負けない」をモットーに、バスケは真摯に、その他は下らないことばかりを皆でしていたあの頃が鮮明に甦ってきました。
そのバスケ部の先輩、同期、後輩を一同に集め、代議士を囲んでミニ集会をしたのも大切な思い出です。卒業以来会っていない先輩とも当時と同じ挨拶を交わすことができ、懐かしいような、嬉しいような気持ちがこみ上げてきました。
今回の選挙では本当に沢山のことを学ぶことができました。また同時に、試合で負けが込んでいても情熱・勢いだけは負けないという強い気持ちを持つ大切さを思い出すこともできました。新しく学んだこと、思い出したこと、どちらもしっかりと心に留めて日々の活動を頑張りたいと思います。(お松)