第957号 吉野山中事故から1年

2020年11月7日 (土) ─

 昨年11月4日、吉野山中で車が擁壁端部に激突するという大事故に遭遇してから、ちょうど1年が経ちました。

◆瀕死の重傷
 激しい衝撃と共に目を見開くと、車内は煙と粉塵で真っ白。何も見えませんでした。三重県熊野での式典の帰り道、助手席で座席を倒して寝ていた私は、事態がすぐに飲み込めず、全身を貫く痛みと目に飛び込んできた左前腕にぶら下がっている手首を見て、車が何かに激突したことを理解しました。右足首もおかしな方向に曲がり、何よりも胴体全体焼けるような痛みで、まだ動かすことのできた右手でシートベルトを外すと、みるみるうちにお腹が膨らんでいきました。もはや危険な状態であることを理解しました。

 40分ほどして救急隊が駆けつけてくださり、私の容態を見て、すぐにドクターヘリを要請されました。同乗していた妻に、救急隊員が「ご主人危ないので!」と別の車に移動させるのを見て、事態の深刻さがわかりました。

 腹腔内の出血はどんどん進み、意識がもうろうとしていく中、苦しみと失血性ショックの直前状態に陥りながら、もはや、ここで私の生涯は終わりか…、と生きてきて初めて、自らの「死」が頭をよぎりました。ドクターヘリは日没では飛べなくなり、その時間まであと10分と緊迫した中での搬送。もし間に合わなければ救急車での陸送を余儀なくされ、私は道中で絶命していたところでした。

 ドクターヘリで意識が薄れる中、乗り込んでくださっていた県立医大高度救命救急センター長の福島教授に励まされ、病院に到着し、緊急の開腹手術が施されました。内臓を取り出し損傷部位を切除、縫合、つなぎ合わせ、複雑骨折で粉砕状態の骨を丁寧につなぎ止めチタンプレートを埋め込む等の手術をしていただきました。

◆奇跡的な回復
 意識がない中で、幼い頃、両親に手を引かれて歩く自分の姿や、よちよち歩きの弟がついてくる姿に、自分の歴史を映像で見るようでしたが、幼き日の後には、友や妻や家族ではなく、本会議場が見えたのでした。フラッシュを浴びて本会議場に入る姿が何度もよぎりました。今思えば、「もはやここまでか…」と観念したのと同時に無念さがこみ上げてきたのだったと思います。

 そんな死地からの回復は、奇跡的な速度で進みました。絶飲絶食の中、ボディビルで身につけていた筋肉がアミノ酸に分解され内蔵修復がなされる「異化作用」が生じ、信じられないような速度で回復していきました。やがて機能回復のため、スポーツリハビリ専門の東京メディカルセンターに転院、チームで機能回復にあたっていただき、復帰を遂げることが出来ました。新しい命をいただいた思いです。

 蘇りの地、熊野を詣でてこのような事故に遭ったことの意味をベッドでずっと考えてきました。そして再び戻ることが出来たなら、もう一度皆さんに、政権の選択肢を示す政界再編こそ私の使命だと、をあらためて気づきました。

 この新しい命を、奈良のため、国のために使いきります。

 

スタッフ日記 「ふりかえれば」

 奈良の商売は大仏商法と言われながらも、古都として愛され続ける奈良。今なお終息しない新型コロナによって飲食店、土産物店をはじめとする観光業はかつてない厳しい状況となっています。

 先日、奈良市一等地の東向き商店街にある土産物店が、経営者の高齢化が原因で閉店すると話がありました。家業が土産物卸を営んでいた私には信じられない話でした。私が幼い頃から卸売業を営んでいた父、その時代には、シーズンにもなると店で働く従業員の1か月の賃金が1週間で稼げるほど儲かると聞かされていたからです。

 確かに時代背景は今とは違います。父の配達に付いて行った頃、観光客のそのほとんどは国内の観光客で、外国人観光客も今とは違って中国、韓国の方はほとんど見受けませんでした。

 買われる土産物も様変わりしました。当時は鹿の角細工をはじめとする奈良の工芸品がよく売れていました。私の父も、東大寺の伐採された杉を加工し焼杉の銘々皿なんかを製造し、時の奈良県知事賞を頂いたのを今でも懐かしく思い出します。

 そんな当時、外せない土産物のひとつがペナントでした。奈良市であれば若草山、大仏様、五重塔、興福寺などが描かれた三角の布は、その土地へ行った証としてコレクターも多く、全国にその土地のランドマークが描かれ、旅をした思い出には存在感ある最高の一品でした。

 時代が変わればすべて変わる、そんな言葉で終わらせるのではなく、昔を思い出しながら、今の時代そしてこれからの時代をよりよく過ごせる知恵袋を見つけていきたいと考えています。(よっちゃん)

第957号 吉野山中事故から1年