揺れる、政治の責任
ギリシャのパパンドレウ首相による、国民投票発言でEUは大揺れとなった。
26日にEU首脳会合で決した「包括支援プログラム」について、もはやギリシャに選択肢など残されていないのは明らかなのに、パパンドレウ首相は1日未明に国民投票に付する旨の発言をしたことの意味は何か。
僕は、政治の限界をパパンドレウ首相が感じた瞬間だったのではないかと言う気がしてならない。
その後の独仏両首脳による説得と、つなぎ融資の凍結という最後通牒のようなある種の恫喝によって、再度国民投票は撤回との報道が流れさらには首相の退陣が流れるなど、ギリシャ政権は混迷の極みだ。だが、世界中の混沌とした状況の中で、もはや他人事ではないと感じる。
ギリシャのこうした政権の混迷は、言い換えれば政権基盤の脆弱さに依拠するものでもある。与党がわずか過半数を二議席上回る程度の状況にまで追い込まれ、政治のリーダシップの発揮が困難な状態だ。そして、国民からの突き上げ圧力によってむしろ国民の意に沿うように判断してもらった方がありがたい、と政治が逆に国民に委ねてしまっているようにさえ映る。
また、こうした傾向は、世界中に蔓延しているかのようにも見える。
民主主義が多数によって決する中、圧倒的な正義、大義が明らかにされにくい状況(アジアの一部、中東諸国を除く先進国においてだが...)で、政治が確たる基盤を持ち得ずに翻弄され出すとあっという間に直接民主的な作法へと解決の方策が流れていく。一見、広く国民に聞くという民主的な方法で正しいかのようにも見えるが、政治の責任放棄だとも言えなくもないだろう。
むしろ、このような大衆討議に付することを最終的な民主的方法として当たり前の着地点にしていくと、その責任を国民一人一人が本当に背負う覚悟を持ち得ているのかということに行きつく。
国民が決めたのだから、国民に責任があるといって、終わりにするのか。それは断じてできない。
僕は、このことを非常に危惧する。
恐れずに責任を負う覚悟が、政治には求められている。
かの地、ギリシャや混迷を極める諸外国のありさまを見ていると、我が国の状況もそう変わらないものであると痛感する。