40年の喜びと苦悩
沖縄復帰40周年記念式典に出席のため、日帰りで沖縄へ。
40年前と言えば、当時僕は11歳の小学六年生。5月15日の午前0時に復帰となった当日の報道ぶりが、何やら大変な騒ぎだったのを覚えている。自動車の左側への通行車線変更は、その6年後の7月30日だったがその時の映像と混同しているのかもしれないが...。
でも、まだ子どもだった僕は、沖縄の人々が喜んでいる姿を見て、とっても「良いこと」が起きていると、おぼろげながらに思っていた(ような気がする...)。
しかし、当時の沖縄はそのような喜びにあふれていたばかりではない。米軍基地の存続、県民の主権の制限などまだまだ解決しなければならない課題が山積みのままだった。だから、返還に対して、大いなる怒りをもって本土復帰のその日に多くの市民が抗議の意思を表明していたことを後々に知ることになる。
占領から解放されたとされながらも、実質的な占領下にあることが続くことを沖縄県民の皆さんは直感してきたのだろう。
地位協定の見直しが図られない限り、何一つ本質的な問題の解決にならないことを最もよくわかっていたからこその、復帰の喜びをかき消すかのような抗議集会だったのだろう。
しかし、一方で累次の特措法制定などの振興施策によって着実に沖縄の環境は変わってきたのも事実である。ただし、本質の課題は置き去りにされたまま。
そんな、苦しみの中での一つの区切りの40周年に際して、元沖縄開発庁長官の上原康助氏の式典でのあいさつは、厳しいものであった。
もちろん、上原氏は冒頭にこのような祝いの席でふさわしくないかもしれない自分の挨拶について、一言断りを入れていた。そして、単に40周年の喜びで語られるだけではない、沖縄の歴史を語られたのだと思う。
本土復帰後も、いまだもって解決していない「占領下」を、どうやって解決していくのか、という大きな課題を政府に突き付けるものだった。そして、それは来賓出席していただいていた米国ルース大使並びに野田総理の日米両国を代表するお二人に向けられていたのは言うまでもない。さらに言えば、今日までの長きにわたって政権を運営してきた自民党に対してでもあった。
僕は、大臣時代、尖閣問題で政治的な責任を背負うことになった。沖縄には特別の想いが今もある。そして、沖縄問題のことの大きさと深さは、単に領海を形成する島嶼ということだけでなく、王朝の時代からその時々の強国の政権に翻弄され続けてきた歴史ではないかと言うことに想いをいたす。
だからこそ、沖縄県民の気持ちに寄り添うことなく課題は解決しないと痛感した。
残念ながら日程の関係で、記念式典とレセプション出席で帰らなければならないが、また、あらためてじっくりと時間を取って訪れたい。