議事録と最悪のシナリオ

2012年2月15日 (水) ─

 震災関係の議事録の不在や原発事故での最悪のシナリオについて、巷間言われていることについて整理しておく。

 昨年3月26日、発災後二週間強を経て官邸に急きょ呼び出されて任命を受けた総理大臣補佐官。辞令には「東北地方太平洋沖地震災害及び原子力発電所事故の対応を担当させる」と書いてあった。

 官邸から政府・東電統合対策本部全体プロジェクトの会議に直行するよう命ぜられ赴く。

 そこで、細野補佐官から示されたのがいわゆる「最悪のシナリオ」だった。

 3月25日付のその資料には、さらなる水素爆発による格納容器破損で放射性物質が次々に放出されるという不測の事態が描かれていた。

 その時は細野補佐官から説明を受けシナリオを見せられただけだった。

 そして、総括リーダーとなった細野補佐官から、僕には放射性物質の汚染拡大防止を図る「遮へいプロジェクト」のリーダーというミッションが指示された。

 事態の詳細も、ましてや原発のことなど何も知らない僕が、いきなり「遮へいプロジェクトリーダー」としてその直後から会議を運営することになる。

 会議の中身もちんぷんかんぷんのまま、ただただ、大変だ!との思いだったのを今でもはっきりと覚えている。

 それから、二週間、連日、飛散防止剤の散布をはじめ原子炉建屋のカバリング、地下水の浸透流解析による海中への放射性物質拡散流出防止策検討や、さらには度重なる余震対策のための4号機燃料プールの耐震補強工事の立案などに没頭していた。

 連日の全体プロジェクトの会議や、各チームの会議については毎回の議事録が必ず議事メモや議事録案として次回に示され、訂正がある場合はそれを指摘しかつ必ず反映されているのを確認していた。したがって、僕が関わっていた会議に議事録が存在しないということは一度もなかった。

 そしてそ4月7日。

 再び、細野補佐官総括リーダーから連絡が入る。あらためて「最悪のシナリオ」を提示された。「遮へいプロジェクト」とは別に「最悪のシナリオ」に対する対策の指揮をいきなり頼まれることになる。

 26日から二週間、僕は遮へいプロジェクトにつきっきりだった。そこへ、新たなミッションの追加。この二週間の最悪のシナリオへの動きは、一切知らされていなかったが、またもや大変な仕事を委ねられたことだけは明らかだった。

 しかも、これは国民の生命の安全を守るためにも極めて重大なタスクであり、統合本部組織として明確に位置づけて責任を持って対応すべき事だと総理にも進言し、「遮へいプロジェクト」を「中長期対策プロジェクト」へと組織改組も行った。最悪の事態にも対処していることをむしろ国民にも開示すべきだ、という基本姿勢を持って臨んだのである。

 いわゆる最悪の事態を想定した、緊急の危機対応策を具体的に策定していく仕事として相当の緊張感を持って取り組んだ。当然、適宜、菅総理にも説明と了解を得ながら進めた。

 菅総理も「政府が最悪の事態を想定して準備をしていることを隠す必要はない。むしろ、国民の皆さんに安心してもらえるはずだ。」と、僕の進める方向性を支持してくれた。また、東電ロードマップへの反映も強く主張し、5月17日のロードマップから反映されることになった。

 そして、最悪のシナリオへの対応策が整いつつあるなか、水素爆発の危険性の除去も一歩一歩進んでいったのである。

 その意味で、十分な対応は当時できたと思っている。先日の予算委員会で細野原発事故担当大臣が、当時その「シナリオ」を知り得たものとして、菅総理、細野補佐官、近藤委員長、そして僕の名を挙げた。しかし、もちろんこの対策作業に当たったものは皆これらの情報を知り得ることになる。

 政府の危機対応は働いていた。最悪の事態への準備も整えた。さまざまな憶測が飛び交うことには関心ないが、少なくとも当時の補佐官として行うべきことは全力で取り組んできたと思っている。

議事録と最悪のシナリオ