第656号 遅すぎた吉田調書公開 

2014年9月13日 (土) ─

 政府は、福島原発事故を調査した政府事故調査・検証委員会が故・吉田昌郎元所長を聴取した記録(「吉田調書」)を、9月中にも公開する方針です。

◆公開に至る経緯 
 吉田調書は、今年5月に朝日新聞が独自入手し、調書に基づいた報道を行いました。その際、政府は、吉田氏本人が公開を望んでいなかったとして、引き続き非公開とする方針を示しました。ところが、8月になり、新たに、産経・読売両新聞社が調書を入手し報道を行うと、事故当時、所員の9割が「所長命令に反して」福島第二原発に退避したか等について、メディア間で解釈の食い違いがあることが明らかになりました。これを受け、政府は、事実が断片的に伝えられることで独り歩きし、吉田所長の懸念が現実のものになっているとして、調書を公開する方針に転換しました。

◆言論の自由市場 
 吉田調書は、事故当時の現場責任者の生の声を録取した歴史的資料です。政府が原発再稼働を進める中、現場で何があったのかを、当事者の声で明らかにすることは、二度とあのような事故を起こさないためにも極めて重要です。このような観点から、私も、5月の時点から、公開を主張してきました。 

 今回の件でも明らかなように、同じ資料に基づいて報道する場合でも、メディアというフィルターを通じて伝えられる場合には、伝える側の立場や考え方により、解釈の違いが生じます。 

 報道のネタ元になる資料が広く公開されている場合には、報道内容は、様々なメディアや個人によって伝えられるため、伝えられる事実に食い違いがあっても、それは「言論の自由市場」の中で検証が加えられることになります。すなわち、情報の受け手である国民は、あるメディアが伝える内容だけでなく、別のメディアが伝える内容、さらにはメディア以外の個人が伝える内容を比較し、自ら正しいと考える情報を「言論の自由市場」の中から選び取ることができます。ここでは、情報の送り手(メディア)ではなく、情報の受け手(国民)が主導権を持ちます。 

 しかし、報道のネタ元になる情報が非公開とされている場合には、情報を入手した一部メディアのみが報道を行うため、主導権はメディアや情報を持つ政府が握ることになり、情報の受け手は、それが本当に正しいのか検証を行うことが困難になります。さらに、仮に政府が特定メディアにのみ情報を意図的に流すようなケースでは、報道が政治的に利用されるリスクも生じます。

◆国民に情報の主導権を 
 この問題は、特定秘密保護法の問題とも関係します。民主党は、行政情報の管理は重要であるが、それは情報公開の充実とセットで行うべきとの立場です。すなわち、国や国民を守るための情報は着実に管理する一方、行政情報は、可能な限り国民に公開し、オープンガバメント(開かれた政府)とすることで、国民が情報の主導権を持つ民主的な社会を実現する考え方です。 

 今回、吉田調書は公開されることになりましたが、それはメディア報道の結果による「受け身の情報公開」にすぎません。情報公開に後ろ向きな安倍政権は、今回の件を教訓に、民主主義における情報公開の意義を改めて考えるべきです。(了)

 

スタッフ日記「ピアノを教えること」 
 私は芸大でキーボードを勉強している大学生です。最近放課後にピアノを教え始めました。 

 依頼者のお母さんは、4歳の息子さんにピアノを習わせてあげたいけれど、まだ家にピアノがなく、また仕事があって送迎もできないので、大きな教室に通わせるのは不安なのだと話してくださいました。 

 話を聞いて、僕は正直迷いました。ピアノがなければレッスンはとても大変です。しかし、本当にここで断わってよいのかとも思いました。なぜなら、生徒募集の用紙に「楽器がなくても教えさせて頂きます」と書いたのは他ならぬ私なのです。 

 私の友人が子どもの頃、ピアノがない、という理由で教室でのレッスンを断られた、という話を前に聞いたことがあり、その時、必ず全員がピアノを始められるわけではないという事実にショックを受けました。芸大に進んだ私は、こういった子にも自分が出来ることはないだろうか、と考えていたのです。 

 ただ、実際に依頼が来てみると、大変なことを引き受けてしまったかな、と思いました。でも、小さな手で固い鍵盤に向かう原動力になるのは、音楽を強く好きだと思うからではないか、それをベースにレッスン出来るのではないかと考え直し、引き受けることにしました。 

 当日、ピアノの楽しさに触れてもらうことを一番に考えてレッスンをすると、はじめは恥ずかしがっていた男の子も、最後は「またレッスンにきて」と言ってくれるまでになりました。道のりは長いと思いますが、その子と接する中で見つけていきたいと思っています。(リアルキッズ)

第656号 遅すぎた吉田調書公開