第546号 政治とメディア
先日、政治とメディアについて講演する機会がありました。
現在、国会では社会保障と税の一体改革三党合意やそれを巡る民主党内の分裂騒ぎなど、政策よりもむしろ政局が話題の中心となっていますが、こうした政治状況を導いている原因の1つがメディアです。もちろん政治の動きがなければメディアはそれを報道することができないのですが、メディアがある意味世論を操作するかのような動きをするとか、政局を煽るといったことが現実には起こっているように思えます。従って私たちもメディアの特性や制約を理解したうえで冷静に判断することが求められます。
◆新聞とテレビ
新聞は全国紙はじめ地方紙も含めて代表的な言論メディアと言えます。ジャーナリズムの原点でもある報道は憲法21条に保障された「表現の自由」の下、自由闊達な論説が認められています。憲法で「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とされ、「検閲は、これをしてはならない」と規定されています。
ゆえに新聞は社説としてさまざまな政治テーマについて「論説」することが認められています。消費増税に対して、新聞各紙が明確な主張の違いを見せていたり、全国紙が右派・左派などと区分される所以はここにあります。
一方、テレビは同じ報道機関とはいっても、新聞とはその成り立ちから全く違った状況に置かれています。
テレビは憲法21条の言論の自由の下にありますが、同時にテレビ事業を定める放送法と電波法、並びに電波監理委員会設置法の電波三法にも厳しく規定されています。
放送法4条2項では「政治的に公平であること」、3項では報道は事実をまげないですること、4項では「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」が定められています。つまり、テレビは政治的テーマについて公平に事実と論点を明らかにすることしか認められていないのです。テレビが「解説」しかできないのはこうした理由からです。
以上のような立場の違いの中で、新聞は「論説」を政治的ポジションを取って表明することができますが、テレビはそれができないだけに「解説」をするだけにとどまります。テレビが政策テーマとはかけ離れたワイドショー的な取り上げに終始してしまうというのはこうしたところに原因があるのです。
◆ネットはどうなるか
一方、新聞やテレビも今やネットに大きくシェアを奪われつつあります。先述の電波三法にも、それを所管する総務省にも一切規制を受けないネットメディアは、旧来の新聞、テレビと全く違った存在感を示しつつあります。もちろん、双方向通信が可能で、さらに匿名性が高いところから、犯罪に結びつくような個人的な情報の拡散にもつながりかねないなど、まだ十分注意すべきことは多々ありますが、新聞・テレビが失いかけている「真実を伝える」という報道の本来の役割を、多様性をもって実現していく可能性があることも忘れてはなりません。
私達は政治を正しく伝えるメディアを自ら作っていく必要があるのかもしれません。(了)
スタッフ日記「梅雨時の映画。」
一年間にレンタルビデオ、映画館、合わせ600本映画を観ていた時期が数年あり、感想やら、気づいた事を記入していたノートを今でも時々見て、メモを読みながら印象に残っているシーンやら音楽、映像を想い出すなんてことを今でもやっています。
ノートには日付も記入してあり、同じ日にビデオを6本半も観た日などもあって、自分でも唖然とすることがあります。でも、内容をちゃんと覚えているし、台詞に似た言い回しを使っていたりすることもあります。
いちどきに何かを大量に味わって、何か得て、そして飽きてしまう、ということはよくあることです。僕の場合は映画でした。今では新しい映画を観なくても我慢できるし、タイトルとスチル映像を少し観るだけで全部を観た気になれ、なおかつwebで情報集めて満足することができます。少しずつ、長く愛し続けられれば良かったのだけれど、過剰に好きになって終わってしまった映画愛。初々しくときめく映画好きには、もう戻れそうにありません。非常に残念です。
そんな僕のお勧めを今日は2本。ともに旧作ですが1本がポール・トーマス・アンダーソン(PTA)のマグノリア。3時間位の長い映画です。主人公が多い点とサントラの素晴らしさが格別です。何回観ても、映画の中の誰かに自分を重ねます。もう1本はこれまたサントラでノックアウトされたロストイントランスレーション。外国人監督が日本で撮影してる点も相まってまさに、ロストイントランスレーション(な人も多いはず)の秀作。梅雨時、たぶん2本ともスカッとしないこと間違いなしッ!!(ポップ)