第482号 東日本復興院構想

2011年3月19日 (土) ─

 このたびの東北地方太平洋沖地震による被災者の皆様に心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。

◆東日本大震災
 3月11日14時46分、三陸沖でマグニチュード9.0という未曽有の大地震が発生しました。太平洋側を中心として東日本全域を襲う大地震災害は、直後の津波によって万人を超える死者の規模が推測される等、大変な被害となっております。また、その後の福島第1原発の制御不能状態は、更なる被災の不安を増幅させています。政府としても、全力で被災者救助、救命、支援を行うと同時に、原発においても徹底した情報開示と共に事態収拾に向けて総力で取り組んでいます。

 被災地はもとより、一部地域でも物資や燃料の不足が指摘されていますが、ここは落ち着いた行動と判断が求められます。国民全員でこの災害を乗り越えていかなければなりません。

◆帝都復興院
 1995年の阪神淡路大震災の時には、1月17日に被災した後、復興のための法整備をし、対策本部を立ち上げるのに1ヵ月近い時間を要しました。震災直後の救命、救援は当然ながら、実は早期の初動体制構築による復旧・復興支援こそ政治の大きな責任です。阪神淡路の初動3年の予算は応急仮設住宅、救護資金の貸付、瓦礫処理、二次災害対策、神戸港などの修復、道路・鉄道の修復、橋梁・公共施設の耐震補強、住宅支援、土地区画整理、健康医療福祉、児童支援、中小企業対策等に約4兆が充てられました。恐らく今回の震災復興はこの数倍の規模になると考えられ、その復興策はまさに「新たな日本の創造」となる大事業となり得ます。 

 そこで、こうした復興に際し参考にすべきは、1923年の関東大震災時に創設された「帝都復興院」です。9月1日に起こった関東大震災の翌日より帝都復興省案と共に検討され、9月27日には山本権兵衛内閣により政府機関として設置された復興の要です。総裁は内務大臣の後藤新平(元鉄道院総裁・東京市長)が兼務し、幹部には後藤の腹心やブレーンが集められました。総裁官房、計画局、土地整理局、土木局、建築局、経理局、物資供給局が置かれ、内務省、鉄道省その他から有能な技術者を集めて、帝都復興事業に取り組んだのでした。
後藤は1人で、遷都はせず、復興費は30億円(当時)を要す、欧米の最新の都市計画を採用、新都市計画実施のために地主に対して断固たる態度をとる等の基本方針を立て、帝都東京の復興計画を実現していきました。

 こうした強力なリーダーシップと行政権限を持った組織の構築、また、新たな東日本の再構築に日本の未来を重ねた計画づくりがいまこそ求められます。
◆平成版東日本復興院構想 
 具体的な実現については、政府が与野党一体となって検討し決定していきますが、平成版の「東日本復興院」は、新日本再生のための技術開発と東日本被災地再生ための支援という大きな2つの柱を基に進められるべきです。まず取り掛かりとしては、直面するであろうエネルギー問題に真正面から取り組む姿勢と戦略が求められます。(了)

 

スタッフ日記「復興を願って」
11日に起こった東北地方太平洋沖地震で、今、日本中が大変な状況となっています。被災した人、しなかった人ではなく、まさに国民全員が被災者であり、この国難に一体となって向き合わなければならない時です。私の郷里、宮城県女川町は町全体が壊滅しました。幼き日に通った保育園も、駅も、大きな市場も、歩いた道すらなくなって、実家の家ももうありません。本当に何もかもが無くなっていました。

その生々しい現状の中、未だ避難生活を余儀なくされている方々はどんなに辛く、苦しいことでしょうか。以下、被災した姪の日記を抜粋いたします。 

「鉄砲水のような勢いで津波が押し寄せて、その最中も強い余震が続き、避難してそれを見つめていた人たちの肩には雪が積もっていました。電気もガスも水道も止まり、避難所は地震で窓ガラスが割れていて冷たい風が室内にも吹いて、寒さでほとんどの人が眠れずに寄り添って被害状況を話していました。両親を探す人。津波にのみ込まれ、泣く泣く親の手を放した女性。妻が目の前で流されてしまった男性。子供を失った人。人が車ごと呑みこまれていくのを目の前で見てしまった人。津波がひいた後、家族の遺体を見つけた人。様々な方がいました。自分のことで精一杯で、目の前の「助けて」の声にも、応えられなかったんです。被災地の方、頑張りましょう。いま、私たちには何もありません。これからどうやって生活していけばいいかも分かりません。すぐに助かる保障もありません。先のことは何も見えないけれど、いま生きていることに感謝です。そう考えて、いまは踏ん張るしかないんです」(チョロ)

第482号 東日本復興院構想