市場を過信するなかれ

2006年9月19日 (火) ─

 最近考えるのが、市場の問題。

 小泉総理は、市場の自由な競争力を伸ばしていくことを重視する政策を採ってきた。このこと自体は、否定するものではない。

 今もって、この国の市場というものはさまざまな規制でゆがめられている。そしてその規制改革(「緩和」のみならずなのだ!)こそが、自由社会を創造するための重要なキーワードでもあったはずである。あるいは、大小さまざまな規制によって、いまだかつて真の意味での「市場」というものを私たちは持ったことがない、とまで言い切ることもできるかもしれない。

 こう考えてくると、小泉政治が投じた一石というのは非常に意味のあるものとの評価も一部から出ることに一定の理解を示すこともできる。

 しかし、しかしだ。最近、私が考えるのは、果たしてこのかく言う「自由で公正な市場」というのは、現実に存在し得るのか!?、ということである。

 ありとあらゆる機会や参加条件を均等にしていくことが可能な市場とはどういうものなのだろうか。ひょっとして、私たちはありもしない、理想の「市場」をとてつもなく無駄な労力と犠牲を払って求め続けてはいないだろうか?。

 こんなことを、考えてしまうのである。

 競争の不平等と、セーフティネットの欠如によって生じたこの国の中でのさまざまな格差。格差に問題があるのではなく、「格差の固定化」にこそ問題があるのだと私自身も発してきたが、ふと、「幻のユートピア」を求めてはいまいか?、の疑問が最近、特に沸き起こってくるのである。

 おそらく、完全に機会が均等で条件も公正さを担保することができる市場というのは、実はITを組み込んだ金融市場でしか実現できないのではないか。

 公正で自由な市場というのは、現実社会では極めて限定的な条件の下でしか成立し得ないのではないか。こう考えると、世の多くの政治家が狂奔している「自由と公正」な社会とは何かをもう一度、考えてみる必要があるのではないかという思いに駆られる。

 社会主義を求めよと言っているのでは断じてない。あまりにも「完全なる市場」を信じ過ぎたツケを、私たちは今背負いだしているのではないかと申し上げているのである。

 市場とは、一部でしか成立しないもの。社会の中では本当に、わずかな部分でしかないこと、このことに目を向ければ、一方で政治が取りくむべき方向性というものがより、はっきりと見えてくるような気がする。

 この、提言はまだ、不十分な検証でしかないのだが、私自身の社会観を確立していく上で、極めて重要な観点を今、得たと思っている。

 市場を過信するなかれ。

 単に競争主義を否定する輩と同等視されるのはつらいのだが、新たなテーマとして考えていきたい。

市場を過信するなかれ