審議拒否の苦悩

2006年11月21日 (火) ─

 今日も、街頭や集会等で審議拒否についての厳しいご意見をたくさんいただいた。

 わかってます。

 理由を述べても国民の同意を得にくい「絵柄」となっていることは。

 しかし、国会に来て2年11ヶ月(まだ、3年経ってない!)だが、会期制を取る現行法での国会審議では、野党の抵抗というのは「審議日程を如何に延ばすか」にしかない。

 粛々と審議して採決をすれば、絶対多数の与党で決まり。野党のとりうる方法は、ありとあらゆる手立てをもって世論を喚起し、審議日程を引き伸ばして会期中での成立を阻むことしかないのも事実。

 そのためにかつて行ってきた物理的抵抗手段の一つである牛歩戦術などというのはもはや滑稽にすら写るが、それしかなかったという過去の経緯もあるのかもしれない。

 さて、21世紀に入り世の動きは変わりつつある。

 人々は情報の氾濫の中で、ある一定程度の尺度を持って取捨選択を行うようになってきた。すべてをお上からありがたく押し戴くのではなく、自立的な選択者として行動をし始めている。

 このような状況にある今こそ、「抵抗」のアピールがいるのではないか。それも、徹底審議を求めた上での抵抗を示すことが求められているのではないか。

 今回の教育基本法特別委では、野党欠席によって与党による単独採決がなされたが、国民には野党の反対の意図が十分伝わらなかった。

 いじめや未履修問題に始まり、その後はやらせタウンミーティングなどもはや「だまし」と「責任逃れ」の実態のオンパレードに、そもそも「教育の基本」を論じる前提条件すら整っていないのではないか?、の議論が十分に国民に伝わっていたのだろうか。

 むしろ、「なぜ、民主党は教育基本法の改正に反対するのか?」といった声を聞く。反対ではなく、対案を提出してきた経緯すら多くの人々に一顧だにされていない状況を深く反省しなければならない。

 タラレバを言っても仕方ないが、「教育を論じる場だから」の配慮によって強行採決阻止の「強硬手段」がなされなかったことは、果たして国民へのアピールを考えたときに良かったのか?。

 結果については、誰でも後に論じることができる。従って、私も一評論家でいるつもりはないが、今回の場面は強行に採決を急ぐ与党をあぶりだす意味においても物理的抵抗もあったのかもしれない。果たして、どうだったのか?、の自らへの問いかけは続く。

 2年前、年金問題を小泉内閣に強行採決させた場面は、それまでのわが党執行部の年金未納問題を吹き飛ばすほどのインパクトを国民に与えた。

 今回はどうだったのかと重ねて考えてみる。

 「国会対策」という、「人の対策」を軸にすえる仕事の果てない難しさを改めて思う。

審議拒否の苦悩