サーファー

2006年3月16日 (木) ─

 先日、学生時代に住んでいた神奈川の大磯に行ってきた話をしたら、相当にレスが入る。

 サーファーだったんですか!?、との問いかけに、「恥ずかしながら...。」と答えるしかない。いまや、見る影もナシとは思うが、だって、ホントだもん!。

 実は議員同士でもこの話題で盛り上がってて、エーッ、お前がサーファー???、みたいな目線とそのものの言葉があちこちから飛んでくる。

 横浜国大の学生時代、いや、て言うかぁ、サーフィンしたくて横浜国大行ったようなもんなんだ、実は。

 幼馴染のケー坊とサーフィンしようって言って、そんでもって横浜国大行って大磯に住んだ。

 ポイント前のサーフショップ「ドミンゴ」で初めてのボードを買って、とにかく毎日サーフィン。ほとんど大学行かなくて、さすがに心配した同級生たちがアパート訪ねてきてくれて、そこで海のまん前に住んでいる事実を皆知り、以来「海の家」と化してしまったりした。

 とにかく、海に入ることが、大きな生活の柱だった。

 大磯に波がない時はそれこそ、ケー坊と車走らせて酒匂へ、吉浜へとバムっていた。台風が来ると大喜びして、幻の大波が立つと言う「稲村ガ崎」にまで行ってた。

 稲村のアウトサイドは、サーファーにとって伝説の地。グーフィーの波だが、七里や鵠沼のいわゆる鎌倉のプロサーファーから、平塚、大磯などの西湘のプロサーファーまでが集まってオールスターのごとき面々のセッションを間近で見た25年前の台風20号。

 懐かしい、の一言。

 初めてケー坊と一緒に買った板(サーフボード)は185センチの大きな板だった。ドミンゴオーナーのプロサーファーのヨッちゃんが、「初心者はこれだべ!。」って無理やり大きなシングルフィンの板をあてがわれた。やがて「業界」はツインフィン、トライフィンなどに変わり、どんどんショート化していった。また、ノーズ(先端部分)もニードルと言われるトンガリに変わっていった。やがて、自分もそんなショートのニードルの板に乗るようになっていた。

 酒匂が唯一、湘南でチューブを巻く時期があった。チューブライドはサーファーの夢。ケー坊が酒匂でチューブをくぐり抜けたその晩、その話題だけで二人は飲み明かした。

 そして競技サーフィンの世界は大波を乗りこなすことより、カットバックで激しくマニューバを描くトリッキーな技が主流となり、より高度なテクニック重視となっていった。

 ふと今思うと、そんな技術を競うことよりも、純粋に大きな波に乗ってみたいという素朴な感情がサーフィンの原点な様な気がする。

 今だったら、そんなショートなんか無理だろうしノンビリとロングボードでもいいかなぁ、との想いがよぎる。

 今度、議員の趣味をアピールしようよ!、との話で先日も蓮舫議員や松野頼久、加藤公一代議士と盛り上がったのだが、今、できるかな...。

 大体、時間ナイよな。

 思い出話に花咲かせてるうちが、それこそ花か?。

サーファー