第602号 原発事故・戦友への誓い
23日、元東京電力福島第一原発所長の故 吉田昌郎さんの告別の会に参列しました。
◆悔やまれる戦友の死
吉田元所長は私にとって「戦友」でした。
東日本大震災と原発事故の発災から15日後の2011年3月26日、私は原発事故収束担当の首相補佐官に就任しました。それ以降、関わった施策はすべて現場責任者である吉田さんとのやり取りが必要でした。
残念なのは、吉田さんが食道がんで休養されて以降、言葉を交わすこともできずに逝かれたことです。一言、「ご苦労様」とお伝えできなかったのが悔やまれます。
吉田さんの一番の思い出は、首相補佐官に就任して間もなくの頃、東電本社で開かれた会議でのことです。会議の途中、福島から上京した吉田さんは「こんなところで議論ばかりしていないで現場を見てください」と言い放ちました。命がけで現場を仕切る人間の心からの叫びでした。それは、ひな壇に座っていた東電幹部に向けられた言葉なのか、政府に向けられた言葉なのかは分かりませんでしたが、私は自分自身に向けられたものとしてその言葉を胸に刻み、その後の政府での対応にあたりました。
そんな吉田さんと、最も激しいやり取りが行われたのは2011年4月のことでした。
当時、4号機の使用済み燃料プールは、耐震補強工事が必要でした。工事を行うためには、作業員を現場に入れなければならない。しかし、現場は高線量で人は近づけない状況でした。
「あんた、作業員に死ねというのか」吉田さんはこう怒鳴って反対しました。しかし、水素爆発を起こした4号機5階にある燃料プールには、使用済み・使用中の燃料合わせて1535体が置かれており、プールが崩壊した場合、最悪のシナリオが想定されました。それを避けるために耐震工事が何としても必要でした。私は「そんなことは言っていない。人が入れるようにしてから、入ってください」と反論し、激論になりました。
しばらくすると、吉田さんは「小さな隙間があるから、ロボットを入れてがれきを取り除くことから始めます」と言ってきました。反発しながらも、どうやったらできるか最善の策を懸命に考えてくれる人でした。
◆政治の責任を必ず果たす
事故から3ヶ月後の6月11日に国会議員として初めて4号機に入った時も、吉田さんが一緒でした。この時、地下水の流入を止めるために、原発周辺の地下の四方を遮水壁で覆うプロジェクトを実施するため、境界画定を行いました。当初反対していた吉田さんも「分かった」と言って立ち会ってくれました。
ところが、直後に私は補佐官の任を解かれ、地下遮水壁プロジェクトはひっくり返されました。その結果、現在、1日300tの放射性汚染水が海に流出し続ける事態に至っています。吉田さんが「何やってるんだよ」と言っているような気がして仕方がありません。
今、政府と東電がやろうとしている凍土方式遮水壁も地下水バイパスもごまかしに過ぎません。ベストのシナリオを失った今、政治の責任は、ワーストの選択をさせないことです。「政治の責任を必ず果たす」吉田さんの霊前でそう誓いました。(了)
スタッフ日記「夏の思い出」
先週、お盆休みを頂き、家族で長野県の美ヶ原高原にキャンプに行って来ました。
最近のキャンプ場はレンタルで何でも揃っており、街のスーパーで買ったバーベキュー食材の入ったレジ袋を右手に、自宅から持って来た炊飯器を左手に持つという、一見何をしたいのか判らない出で立ちで、私は夕方のキャンプ場に颯爽と現れたのでした。
まず、「本格的なキャンプ」にこだわる小3の息子とともに、バーベキューの火起こしに取り組み、息子が、「二刀流!」と言って団扇2本を手に、甲子園球児のごとく鋭いスイングで過剰なまでに空気を炭に送り込んでくれたおかげで、キャンプファイヤーも同時に楽しめました。もちろん、肉・野菜が瞬時に黒焦げになったことは言うまでもありません(でも完食)。
その後、お決まりの花火を楽しんだ後、巷で流行りのペルセウス座流星群が見えるかも、と思い、標高2000mの高台へ。
しかし、登る途中、子どもが飽きないように私がしていた「怖い話」(もちろん顔をライトで照らす演出つき)のせいで、子どもたちは相当ビビってしまい、カップルもいるロマンチックな星の見えるスポットで、家族みんなで「お化けなんてないさ」を大声で熱唱(リピートあり)してみたりしてみました。
期待した流れ星は見えませんでしたが、代わりに天の川がその雄大な姿を現し、僕らの住む世界やそこで起こる出来事の小ささを感じたりなどしてみました。「家族で仲良く、またキャンプに来られますように」星に願いを込めて、束の間の夏休みは去って行ったのでした。(ホーリー)