生真面目(きまじめ)てつじ
最新のビラ、月間民主号外は「生真面目(きまじめ)てつじ」とまぶちの対談による「価値観を語る」と、裏に「政策を語る」、に「愛を語る」。
中村てつじはどんな人か?、もっとも問われるところ。ウーンと考え込んで、あーでもないこーでもないとのた打ち回りながらふと浮かんだのは、一言、「生真面目(きまじめ)」。
辞書で見ると、「非常にまじめ。まじめ過ぎて融通がきかないサマ・コト」。
これだ!
一気にコンセプトは固まっていく。生真面目(きまじめ)てつじ。
若い、世間を知らない。
7年前に28歳で国会議員になったわけだからイロイロ言われてきたとしても無理はない。でも、そんな指摘や批判もある意味、彼の生真面目さ故のもの。時には融通がきかない場面があったかもしれない。
しかし、生真面目てつじは、小さな出来事に目を向けてきた。小さな出来事に本質が見える、と誰も振り向かないような些細な事象にも熱心に取り組んできた。党内では、「マイノリティ中村」と呼ばれるほどだった(初当選のころ、テッチャンの同期が彼をそう呼んでるのを聞いて、驚いたものだ!)。
だけど、僕は彼のそんな姿勢が大好きだ。
ほとんどの国民が知らない、あるいは知らされていないドミニカ移民への補償問題などは、当時の政府に責任があるとして毅然と闘っていた。地元では、「なんで、ドミニカなん?」と問われて困ってますと笑っていた。「奈良のこと、やれ!」って言われます、とつぶやいていた。
でも、氷山の一角のような表象から本質がみえることがある、との想いで取り組んできたのだろう。
一体、何が、彼をそうさせるんだろう?東大寺学園、京大法学部のキャリアからは想像できない何かが、きっとある。いったい、何なんだろう?、ずっと不思議に思ってきた。
彼の選対本部長となった僕だが、いまだ、その理由を教えてもらっていない。彼自身、ハッキリとわかっていないのかもしれない。それも、彼らしいと思う。
そしてその理由を探すよりも、真っ先に大事なこととして生真面目に取り組むことを選択している。
生真面目てつじ、不思議なやつだがかわいい弟のようでもある。まだまだ、自分探しをしながらの成長過程であると思うが、共に育てて欲しいと切に願う。