第520号 そして、もんじゅへ
12月19日、20日と原子力バックエンド問題勉強会で視察に行って来ました。19日は茨城県東海村と大洗町の独立行政法人日本原子力研究開発機構(JAEA)で、20日は青森県の六ヶ所村の株式会社日本原燃でそれぞれ核燃料の再処理関連施設を視察してきました。特に19日は朝まで地方日程が入っていたため、飛行機、車、電車を乗り継いでの茨城入りでした。
◆東海村と大洗町へ
JAEAでは、理事長以下、幹部の皆さんの出迎えをいただき、概要説明を受けた上で視察に入りました。
まず東海村にて再処理施設分離精製工場(使用済燃料を再利用できるウラン・プルトニウムと再利用できない廃棄物とにわけるところ)や、ガラス固化技術開発施設(地中に埋めるために液体の高レベル放射性廃棄物をガラス原料と一緒に高温で溶かし合わせてステンレス容器で冷やし固める技術を研究する施設)、地層処分基盤研究施設(放射性廃棄物を地中深く埋める技術について研究する施設)などを視察し、車で大洗町に移動。高速実験炉「常陽」(日本で始めての高速増殖炉。高速増殖炉を開発するための研究施設)、照射燃料集合体試験施設(核燃料などの非破壊検査を行う施設)を視察しました。
職員の皆さんにはバックエンド問題の課題に向き合ってゆく覚悟であるという勉強会の意思について理解をいただき、各施設で丁寧な説明を受けました。
勉強会としては既に11回を重ね、現場視察も含めて年末から年始にかけ、取りまとめの段階に入ろうとしています。これまで、利害の調整どころか、論点整理すらできていなかったと言わざるを得ないバックエンド=使用済核燃料の問題についていよいよ本格的に議論を深めるところに差し掛かります。
◆「常陽」とセネカの詩
実は「常陽」では炉内にも入ることが出来ました。高速増殖炉「もんじゅ」の前提となった「常陽」は築30年をゆうに超え、さすがに老朽化を痛感させる施設でもありました。
炉内に入るとすぐその足元の床には円形にラテン語が書かれていました。古代ローマ時代の詩人であり、哲学者セネカの詩の一説です。
「『かくも明白な事実を我々が今やっと体験した』ということに、子孫たちが驚くときが来るであろう」
77年4月に初臨界を実現した当時の原子力にかける夢と希望を刻んだに違いありません。その当時の熱気を感じさせる一節でもあります。しかし、3.11の災禍による福島第一の事故を経験した今、むしろもっと慎み深い気持ちでその「明白な事実」の先にある未来に目を向けなくてはならないでしょう。
セネカの別の詩にこんな一節があります。
「我々の計画というのは、目標が定かでないから失敗に終わるのだ。どの港へ向かうのかを知らぬ者にとっては、いかなる風も順風たり得ない。」
12月24日には福井県敦賀市で高速増殖炉「もんじゅ」を視察します。関係者だけではなく、我々もこうした気持ちをしっかりと胸に刻んで、議論をまとめて参ります。 (了)
スタッフ日記「3・11 あの時」
3・11あの時、私は代議士が広報委員長として初めて手がけたコマーシャルの試写を見ていました。
少しの揺れがどんどん大きくなり、窓の外を見ると背の高いビルが左右に揺れていて、大変なことが起こっているどうなってしまうんだ!と、恐怖を感じました。
私の生まれ故郷は9割近くが海へと飲み込まれ、家族は被災者となりました。
あれから9ヶ月が経ち、被災地には仮設住宅が建設されて避難所はなくなりましたが、長い避難所暮らしの途中で、慣れ親しんだ土地を離れてしまった人もたくさんいます。8月にガレキ処理法案が成立されるまで、山積みにされた残がいを目にして暮らす毎日はどんな思いだったでしょう。
最愛の人をなくした人々、すべて流されもう前と同じ暮らしが出来なくなった人々、放射能のため、家はあっても近づくことすら出来ない人々、その現実を受け入れることは容易ではないはずです。震災後気丈に頑張ってきた方々も時が経つにつれ心の空白が埋められなくなってきているといいます。
家族をはじめ、大変な思いをした方々に対して一体何ができるのだろうかと無力な自分は考えてしまいます。復興は緩やかに感じますが、確かに前進していると信じます。街は何年もかけて新しく生まれ変わっていくのでしょう。被災者はじめ日本にとっての新しい年が希望の幕開けとなることを祈ります。(チョロ)