明恵上人のふるさとへ
平成12年の総選挙に初挑戦のときの、キャッチコピーが「”あるべき姿”の実現」だった。
この「あるべき姿」という言葉は、小泉総理の所信表明にも用いられたりし、メディアにもたびたび踊った。しかし、私自身は、そのずっと以前にビジネスの世界でこの言葉に出会い、さらにその後、語源となる「あるべきようわ」の教えを明恵上人にまでさかのぼって出会うことになる。
明恵上人は、紀州有田の出、鎌倉時代初期の高僧である。4歳にして両親を失い、その後出家して奈良の東大寺で華厳経を修める。将来を嘱望されたが、俗世を絶ち故郷紀州の地に戻り修行を行う。
明恵上人が故郷である紀州の地で修行をしていたのは、23歳からの3年間であった。上人は、厳しい戒律を守りながらひたすら釈迦に憧れ、一人静かに修行していたが、一方で煩悩を絶つために自らの耳をそぎ落とすという行動にまで及ぶ激しさも持ち合わせていた。
そんな明恵上人が、弟子への教えとして残した言葉が、「あるべきようわ」である。
「阿留辺幾夜宇和」と表記されたその教えは、表面的には一日の所業、道具の使い方などを事細かに指示したものであったが、その本質的な意味は「人は人としてそれぞれの立場、職業、境遇で、あるべき姿を求めるのが人の道であり、仏の道である」と説いたものだった。
私自身、この国の「あるべきよう」を求め精進する、の想いで政治の道へと踏み出したのであった。
そんな明恵上人のふるさと、紀州和歌山を訪ねる機会を得た。紀州の地は、温暖な中にも大洋に面したその自然の厳しさに耐える力強さを、湛えているようでもあった。みかん畑の中の道を歩きながら、800年以上前に生きた上人は何を想い、座禅を組んでいたのだろうかと考える。
京都、奈良での仏教界の論争を避け、釈迦の宗派を超えた気高く尊い教えを一筋に極めるために故郷に帰ってきた明恵上人。
上人が修業の後、京都に開いた高山寺には上人の修行のさまが描かれた「明恵上人樹上坐禅像」が所蔵されている。
松林の中で坐禅を組んでいる明恵上人の姿は気迫にみち、樹上で人樹一体となり、松にからんだ藤蔓(ふじづる)の先まで力がこもっている。
今、多くの国民が「あるべき姿」を見失っている。この国の「あるべきよう」を探す「行」を、求められていると感じる。