「いじめ」問題の本質

2006年11月24日 (金) ─

 起き上がりの条件は、衆議院の教育特別委における総理入り質疑だった。

「国会、22日正常化=教基法、実質審議入りへ−参院 与野党は21日午後、国会内で国対委員長会談を開き、22日からの国会正常化で合意した。教育基本法改正案は同日の参院特別委員会で実質審議入りする。会談では、野党の審議復帰の条件として、衆院特別委員会で安倍晋三首相も出席して早期に質疑を行うことを確認した。(時事通信) – 11月21日21時1分更新」

 前号の記述は間違い。私の勘違いでした。申し訳ありません。でも、採決終わった後の「総理入り質疑」というのもなぁ...。

 さて、参院での教育特の審議が連日行われるようだが、いじめの問題やいじめにまつわる子どもたちの自殺など連鎖を断ち切ることができないままである。

 特に子どもたちの「いじめ」については、今に始まった話ではない。

 それこそ、どの時代にも「いじめ」や「仲間はずれ」というのはあった。しかし、そこには必ずある一定の線を越えない、「節度」が組み込まれるようになっていた。その最大の要素は「他人の目」である。

 大人の見守りもさることながら、子どもたち同志の中でも「いじめ」=「弱いものいじめ」として、「恥ずかしいこと」という価値観も相当にあったのではないか。幼きころ、いじめを同年代の子どもから窘められることのバツの悪さを経験している人も少なくないと思う。

 もちろん、幼少期においては自我の強さが勝り「恥」なる価値観は薄い。しかし集団生活を重ねる中で、他者との違いが個性によるものではなく自らの感情に任せた幼児性であることに気がつかされる場面が増えていくと、おのずと恥ずべきことのひとつに「いじめ」が挙げられるようになっていく。

 この「周囲の目」がいまや相当部分、欠如しだしている気がする。

 この原因は何か?。私は、実は私たち大人の側に問題があると考えている。本当に、真正面から人と向き合って生きているだろうか?。

 これは大命題である。人と向き合うことを恐れ、面倒くさがった結果、他者への意識は希薄化しもはや役割でしか言葉を発さない人が増え続けてきた。

 役割や立場で語ることは簡単である。親が子に、夫が妻に、先生が生徒に、上司が部下に、発注会社が下請け会社に、といたるところでこの役割や立場でモノを発しいてる。しかも、ある種権限を持って。

 そこには、自らを見つめなおした上での人間対人間のぶつかりあいなどは、およそ介在しないことが多い。無論、仕事上などは立場でしか語れない場面も多いかもしれないが、それでも本当に自らを振り返って、その上で一人の人間と対峙する覚悟で語らなければならないときは必ずある。

 しかし現実は、多くの人が向き合おうとしない。

 私が見るにつけ、夫婦間でまず向き合っていない。当然、そうなると親子間でも同様のことが発生する。さらに夫は、会社での人間関係で部下や同僚、上司と向き合うことなど手のかかることはおよそしないだろう。妻も地域での暮らしで同じことがおきる。こうして、ドンドン「他者に対する目」が社会から失われていくのである。

 向き合うことの難しさは、自らに向き合わなければならないことによる。

 人は、自分の弱さやずるさや醜さを実は誰よりも知っている。だからこそ、それを認めずに今日ある立場をもって自身を語りたがる。他者を論じたがる。しかし、本当に必要なことはこうした自らの弱さを認めたうえで他人に向き合うことなのだ。

 そのときに初めて、人の痛みや苦しみを理解し、そして共に考え悩み、行動することの手助けができるようになるのである。

 今の世の大人たちが、自らに向き合い、夫婦、親子、地域の隣人、会社の仲間、取り巻く環境の人々と、面倒くさいかもしれないが、困難かもしれないが、真摯に向き合うことをはじめたときにこそ初めて、社会に真の「見守る目」が生まれると思う。

 自分自身、まだまだ足りない。

 しかしいつも、政治家としてよりも何よりも、家族を営むひとりの夫として妻と向き合い、そして親として子どもたちと向き合い、まだ達者な親には息子として向き合い生きていくときに、初めて人々に対して慈愛に満ちたあたたかな眼差しを持つことができると思っている。

 6人の子どもとはいつもどんなときでも、きちんと話し合ってきたつもりだ。忙しいなどは、理由にならない。どんなに時間がかかろうと、お互いがつらくても、齢を重ねているものとして伝えなければならないことは臆せず、逃げずに伝えていきたい。親子の年齢差や立場の違いは、お互いが直ぐに完全に理解しあえるものではないことも十分承知している。しかし、それでも「あなたに伝えたいことがある」の想いは決して消えない。向き合うことの重要性を、今も子育ての中で学ばせてもらっていると思っている。

 いじめの問題は、対症療法では決して解決しない。

 本質的に、子どもたちの問題ではなく、私たち大人の問題であることを忘れてはならない。

「いじめ」問題の本質