第638号 集団的自衛権について
集団的自衛権について、改めて私の立場をお伝えします。端的に述べると、自衛権解釈についても、改憲手続についても「なし崩しを許さない」というのが私の基本的な立場です。
◆自衛権の「限界」設定が重要
集団的自衛権行使を容認すべきか、との問いについて、私は「合理的限界を設定した上で集団的自衛権の行使を一部容認すべき」と考えます。
過去の事例を振り返ると、1980年代のシーレーン防衛、米軍への情報提供、リムパック参加、在日米軍経緯費負担をめぐる議論、1990年代のPKO等の自衛隊の海外派遣をめぐる議論、2000年代の弾道ミサイル防衛をめぐる議論等において、これまで政府は、集団的自衛権の行使は認められないとする一方で、個別的自衛権や警察権の拡大解釈で現実の状況に対処してきたという経緯があります。個別的自衛権のみを認め、集団的自衛権は認めないという解釈は、一見、平和主義に親和的であるように見えるものの、なし崩し的に個別的自衛権を拡大解釈していった場合には、逆に、その限界が曖昧になり、かえって平和主義の維持を危うくするという危険性を有しています。
その危険を回避し、平和主義を堅持するため、個別的自衛権を本来の概念に忠実に限定的に解釈し、集団的自衛権の限界をきちんと設定した上、一定の限定された範囲で集団的自衛権の行使を認めるという検討が必要と考えます。
また、自衛権の限界や基準を明らかにする議論を、公の場、とりわけ国会で行うことで、日本の国際社会における役割や向かうべき方向性が明らかになり、議論を通じて行政裁量を限定し、行政への監視を行うことも可能になると考えます。
従来のなし崩し的な自衛権の拡大解釈を止め、その「限界」をきちんと議論する。それは必ずしも自衛権の拡大ありきではない。これが私の立場です。
◆政権の解釈改憲には反対
安倍政権の閣議決定による集団的自衛権の行使容認(解釈改憲)をどう考えるか、との問いについては、「拙速」と言わざるを得ないと考えます。
集団的自衛権行使を容認する際、手続上の選択肢としては、(1)憲法改正、(2)基本法制定、(3)閣議決定の3つが考えられ、国民の関与は(1)→(3)の順に小さくなります。自民党は、2012年衆院選、2013年参院選の公約で、(2)の立場をとっていましたが、今回、政府は、「二度手間になる」として、国会が関与しない(3)の手続で容認を行なおうとしています。選挙の際に有権者に示した手続と異なる、より簡易な手続を取ろうとしている点でも問題です。
本来、憲法に縛られる立場にある政府が、閣議決定で恣意的に解釈変更を行うことは立憲主義や民主主義の観点から問題があります。変更には、政権与党内での議論だけでなく、国会において国民を巻き込んだオープンかつ徹底的な議論を行うことが最低限要求されます。
メディアでは、上記見解の一部のみを取り上げ、単なる「行使容認」派と分類されることもありますが、それは必ずしも正確ではありません。自衛権解釈に限界を設定し、政府による恣意的な変更を許さない、「なし崩しを許さない」という立場でこの議論に臨みます。 (了)
スタッフ日記「ゴールドですけど…」
先日、運転免許の更新に行ってきました。無事故無違反、ゴールド免許まっしぐらです。
それもそのはず。殆ど運転をした事がないのですから。
取りたての頃は、東京駅から議員会館までカラの車を運転させてもらっていました。しかしながら、反射神経だけでなく、凡そ「身体能力」と名のつくモノの大半がイマイチな私には、すぐに代議士から「運転はしない方がいいな」という英断が下され、今に至ります。
そういえば、東京駅からの帰り道、こんなことがありました。片側だけで3車線もある交通量の多い道で、カーナビが「700m先、右折です」とお知らせしてきました。右折するには車線変更をしなくてはなりません。前を見るので精一杯で、ナビの画面を見る余裕はありません。スムーズに車線変更できる自信もありません。右折、という音だけを聞いて、「できるうちに早めに済ませとこう」、そんなことを考えてしまいました。
しかし、何とか勇気を出して車線変更を行うと、すぐ目の前に右折すべし、の矢印がのびていました。もちろん700m先の曲がるべき角はずっと先です。「ナビも距離じゃなく『いくつめの角を右』って教えてくれたらいいのに…」、とこぼしてもあとの祭り。高台にある国会議事堂を横目で見ながら泣く泣く右折せねばなりませんでした。
目的地はすぐそこなのに辿り着けない、それは北極星の周りを永遠に回り続ける北斗七星のような気持ちでした。
結局、本来15分ほどの道のりを1時間と少し。ずいぶん遠回りをして帰ったのでした。
こんな私でもいつかはもう一度、運転をしてみたいと思っているのですが…。あ、やっぱり自信ないなあ…。(シズ)