安心領域

2005年12月27日 (火) ─

 この一年は、尼崎のJR脱線事故、BSEや鳥インフルエンザ、昨年末と同時期に相次いで起きた幼女への痛ましい事件、そして耐震偽装問題、といわゆる「子ども、乗りもの、食べもの、建てもの」の安全が確保されない国であることの一端が明らかとなった。

 どの国会議員も、口をそろえて言う。「国民の生命と財産を守るのが、政治です!。」と。

 しかし、それはなにやら、今日まであまり真剣には考えてこなかった国会議員たちの「言い訳」のようにさえ聞こえてくる気がする。むしろ国民からは、「当然だろ!。」との叱責の声さえ飛んできそうだ。

 そして、私もその国会議員の末席を汚している一人でもある。肝に銘じておかねばならぬ。その場限りのパフォーマンスを展開する政治家の如何に多いことかという、国民の怒りと嘆きを。

 さて、そんなことを考えながら、「安全」の話をする場面が多いのだが、そこで気になることがひとつ。

 この「安全」を語るときに、「安全と安心」をセットにされる方が非常に多い。

 「安心」。求めて当然である。

 人としての当然ながらの希求である。「不安」を喜ぶものなどいないのである。

 しかし、である。そこで、あえて、しかーし!、と唱えたいのである。

 われわれ政治家はこの「安心」までを、保障すること(国づくり)を目指すべきなのだろうか。

 「安全」は間違いなく、保障すべきである。そして、「安全」は客観的な基準に基づいて計測される部分が多いし、判断の妥当性も客観的に検証しやすい。

 しかし、「安心」はどうだろうか?。人の心のあり様である「安心」は、どこまで行っても確保できないものかもしれない。人によって、「安心」と「不安」の尺度はかなり違う。

 予算の配分が政治の重要な役割のひとつと考えると、「安心」領域にまで踏み込むにはあまりにもコスト高となる可能性が高い。

 だから、私は思う。政治が確保すべきは「安全」であり、安易に「安心」までを約束すべきではない、と。もちろん、最終的に政治家が理念として「安心」を求め、訴えることまでは否定しない。しかし、今、大風呂敷を広げるかのような安全と安心を混同するような議論には与しない。

 安心領域には、慎重を期すべきではないのか。

 と、あえて言いたい。

安心領域