子どもに伝えたいこと

2006年11月26日 (日) ─

 子どもの「いじめ問題」の本質について、私たち大人の問題でもあると前号書いた。

 私たち大人が、自己と向き合うことを恐れ、他者と向き合うことを拒絶し、立場や肩書きでしか人に接していない現状こそが、社会の中で大人が担うべき他者に対する慈愛に満ちた「見守りの目」そのものを失いつつあることの根本原因であると述べた。

 そして、自らは自分と向き合って子どもに向き合ってきたとも述べた。しかし、それでも、自身を振り返ってみると、子育ての中で子どもたちにどのように接すべきかか?という課題については、悩みながら、のた打ち回りながらだ、と実感する。

 子どもと向き合うときに親自身が自己を見詰めなす。では、その上で親は子どもに根本、ど真ん中にどんなメッセージを持って言葉を発するべきなのか?。

 様々な聖人君子の言葉や、ありきたりの常識を語っても彼らの胸には届かない。

 親が最終的に子どもに何を望んでいるか?、の一点が伝わる想いというのは何かを考えなければならない。

 そんな時、私自身はいつも、たった一つ。

「自分の力で生きていけるようになって欲しい。」

 こう心の中で願い、つぶやいている。

 子どもがわがままや怠惰の結果の言い訳を並べ立てているときもある。そのこと一つ一つを丁寧に聞き、諭しながらも心の中でつぶやく。「おまえ、そんなんでは、社会では生きていかれへんぞ!、お父さんやお母さんは先に死ぬんやから、ひとりで生きていかんならんのに、そんなことを言うてたら社会から取り残されてしまうぞ!」と。

 だから、時には厳しく接する。

 社会に出てからの厳しさは大変なものである。誰も助けてはくれない。自らが自らを助く、の強い意志を持たなければあっという間に流されてしまう。だから、子どもが親の庇護の下にいる間私たちにできることは社会の厳しい荒波を疑似体験させてやることしかない。親のすべきは、子どもに負のハードルを示すことだ、と。

 どんな、子どもたちもやがて巣立っていく。翼を羽ばたかせて巣立っていく。しかし巣立った後に待ち受けているのは餌を得ることの困難さや厳しい雷雨や敵の襲撃だ。そんなときに本当にひとりで立ち向かうことができるのか。巣立った後は、自らが切り開くしかない。巣立った子どもへは、もはや親は何をしてやることもできない。

 だから、巣にいる間、親の庇護の下にいる間に厳しい体験を与えてやらなければならない。どんなにつらくても約束は守る。与えられるだけはあり得ない。自らの責任を果たしてこそその成果を得られるのだと。そして、仮に打ちひしがれることがあるときは、温かい巣で親の下で羽を休めることができる。それが、家庭のあり方ではないか。

 と自らに言い聞かせながら子どもと接してきたつもりである。

 長女、次女と高校生になると難しい年代になったと感じる。それでも、ここが子どもが巣立つときのためのもっとも大事なときだと自覚している。

 ヒロコは、「上二人は難しいわぁ...。」と嘆くが、いつも言っている。「6人とも難しいんだよ。」と。

 子どもが、大人になるときに越えなければならない壁の高さや厚さは、人ぞれぞれかも知れないけれど、必ずそこにぶち当たる瞬間がある。

 そのときこそ、われわれ大人が経験してきたことを伝える最大のチャンスじゃないか、簡単に大人になっていける人など、この世にひとりもいないんだから。まだ、これから難しくなる子どもたちが、あと4人いるから、二人で頑張ろうね!、と伝える。

 「学校に行きたくない」と言い出して、夏休み明けの始業式に夫婦で学校まで着いて行った次女は、その後私たち夫婦の部屋で一緒に「合宿中」である。夜、電気を消して布団の中から、ポツリ、ポツリと問わず語りに次女が、自分の想いを口にする。真っ暗な中、夫婦は静かにその言葉を聞き入る。

 交わした言葉は少なくとも、心が触れ合える瞬間がそこにはある。

 厳しすぎる父かもしれないな、と時々自身でつらくなるときもあるのだが、そんな私に、ヒロコから次女が夜中に語ったという言葉を伝えてくれた。。

 「お母さんは、おじいちゃんにやさしかったでしょう...。私も、もう少し大人になったら...お父さんにそんな気持ちになれる時が来るのかな...。」

 子どもも、親同様に悩みながら、必死にもがいている。心の中で、抱きしめるしかない。

子どもに伝えたいこと