修行としての夕立ち

2006年5月13日 (土) ─

 昨日は国交委が終了後、新幹線に飛び乗って近鉄奈良駅前へ直行。ピッタリ午後5時35分に到着。

 すぐさま地下駅から上がると、ハンドマイクが置かれている。おもむろにマイクを握って、街宣開始。

 そう、寸暇を惜しんでの街頭演説だ。

 何か特別のことがあるわけではないが、とにかくこうして辻々から訴えてきたのが自分の政治スタイル。今国会では、予算に行革にとたっぷり仕事をさせていただいてなかなか地元での街宣の時間がとれなかったのだが、とにかくチョットでも時間があったらこの「辻説法」は欠かさずに行いたい。

 小西通りを行き交うお買い物帰りの主婦や、会社帰りのサラリーマン、果ては観光客と思しき大きな荷物を抱えた方々まで、「オッ!、まぶち。」と声をかけたり、目を向けていただいたり、中には会釈やら、握手まで。

 ここ何ヶ月か、あんまり市民の皆さんと触れる機会がなかったため、かえって珍しがられてしまっているのかな、と反省半分、励ましの声にうれしさ半分。

 久しぶりの「夕立ち」を終えて、すぐさま次の日程の懇親会に赴いたのだが、いつも思うのは、この「夕立ち」をしている政治家というのは本当に少ないということ。

 朝は、結構いろんなところで政治家が街頭演説やってるのを見るのだが、何かデモ行進とかイベント以外で夕方に演説やってるのは本当に少ない。

 いつも、政治家志望の方々には言ってるのだが、実は朝も大事だが、この夕方というのは非常に意味がある。

 朝のせわしない通勤や通学時とは違って、買い物や出かけがえりなどゆったりとした時間がそこここに漂っている場合が多い。そんなときこそ、人の心に「一語」を置いてくるという瞬間が生まれるのである。

 まだまだ、つたないが、もし自分に多少なりとも演説力というものが身についたとするならば、実はこの夕立ちによるものが大きい。

 朝立ちは「精神力」、夕立ちは「演説力」を磨く、修行の場なのである。

修行としての夕立ち