言葉はいらない

2007年3月26日 (月) ─

 「チョーットォー!、錦(キン)チャン、かわいそォー!」と声が上がった。

 不易塾日記を読んだ、子どもたちと同年代の子らからの反応だった。

 ヘッ!?、ってな調子でのん気に聞いたのだが、そっかー、チョット赤裸々に書きすぎたかな、息子の進学のこと...。

 でも、自分としては親としての気持ち、さらには息子への愛情含めてどう接するべきかを、「いじめ」など子どもの問題がことさらに発生する世情だけに、自らの素の姿を通じて伝えたかっただけなのだが。いや、自らではない、わが子どもたちを通して人としてのあり方を問うているつもりだったのだが。

 でも、あまりにも明け透けに綴っただけに本人が傷ついているかもしれないなと、ちょっと心配になる。それに、離れて暮らしているし。

 そっとヒロコに電話で、「キン、どう...?」と聞いてみる。「お父さんが、俺に任せとけって言ったんだから、アタシ知らない!」とキビシイ。そんなこと俺言ったっけ?。

 一人息子を愛してやまない母親のヒロコが、情深いがゆえにお互いが傷つけあってしまってはいけない、との想いが強いのはよくわかる。自ずと父親の立場、存在が問われる。

 「お父さん、キンちゃんとよくお話し、してあげてよ。」というのは、母としての心からの願いだ。父として、当然、願わないわけがない。

 息子が、これからの時間をどう過ごそうとしているのか。

 母親は、この春休みという短期的な意味で話している。一方、父親としては、そんな短期的なことではなくもっと人生の一時期として、様々な困難に直面したときに男としてかくあるべきか、ということを伝えなくてはならないと思っている。母親と愛情の深さは変わらずとも、視座の違いによる若干の温度差がある。

 さらに、わが息子はまだまだ、ガキだ(愛情込めて、そう呼ぶ!)。小六終えての子どもにそれほど心配する必要などない。

 これを言うとまたヒロコにまた、「アンタがボケボケしてるからヨ!」と怒られるので口にできないが、男の子というのはボケボケしながら、アッチコッチにぶつかって、それこそ切って縫ってを繰り返しながら少ーしずつ、強く、そして大きくなるものだと思っている。

 女の子は、そういう経験はしなくていいならそのほうが良いという考え方も成り立つような気がする。

 男の子、ぶつかり、へこみ、コケながら、繰り返し立ち上がることを積み重ねてやがて何があってもビクともしない足腰が出来上がる。

 そう思いながら久しぶりに息子と顔を合わせると、あまり言葉が出てこない。

 思い切って、「どこか、行きたくないか、お父さん連れてってやるゾ!」と言うと、「別に...」と答えながらも、やがて恥ずかしそうに「魚(さかな)釣り...!」と答える。

(釣りかぁ...、結構大変だぞ、それっ...)と内心思いながらも、「わかった。」と約束する。

 約束どおり、息子と二人きりで海へ向かう。車の中、会話はほとんどない。

 そして、海釣り公園で竿を垂れながらも無駄な話はほとんどしない。でも、二人並んで釣竿を垂らしながら、俺もオヤジとはこんなだったな...とあらためて40年前を思い出す。

 結局、二人ともボウズ(一匹も釣れず)だった。でも、最後に息子の仕掛けにアタリがあったようだったが、これもバレタ。

 二人とも、寒さで凍えながら、もう上がろう、と仕舞い支度して上がった。帰りの車中も、息子は寝ていた。

 自宅でヒロコに、「錦之介とどんな話したの?」と聞かれたが、「別に...。」と答えると、「お父さん、何しに行ったの?」と言われるが、「釣り!」と(つまらない)答えをするしかない。

 「でも、キンちゃん、楽しかったって!」とうれしそうにヒロコは言う。心配かけてるけど、男の子、あまり多くを話さないけど、大丈夫だよ!、とヒロコに告げる。

 交わす言葉だけではない世界が、ある。

言葉はいらない