糸島での語らい

2006年5月10日 (水) ─

 GW前の28日、本会議代表質問を終えて一路、福岡へと向かった。行き先は糸島。

 親しくさせていただいている山崎養世氏の隠れ家(?)が糸島にあるということで、お招きいただいた。

 福岡空港から筑前前原経由でたどり着く養世さんの隠れ家はヨットハーバー脇の風光明媚な海辺にあった。

 養世さんの同級生やヨット仲間、さらには養世さんのご両親と奥様と、完全に身内の宴のようなところにずうずうしくもお邪魔をしたのだが、他にもゲストがいらした。

 これも、親しくさせていただいている大久保勉参議院議員とジャーナリストの櫻井よし子さん。

 大久保さんとはしょっちゅうご一緒しているのだが、櫻井さんは勉強会などで顔を合わすぐらいだったので、初めてじっくりとお話しすることができた。

 福岡の魚に舌鼓を打ちながら酒を酌み交わしての、櫻井さんとのお話は多岐に及んだ。

 しかし、その中でもとりわけ外交問題や、東アジア問題など櫻井さんの鋭い指摘をいただきながら、ふと、「アレッ、これ前にもまったく同じことを聞いた場面があったな!」というデジャブにとらわれた。

 それは、「歴史の事実を公文書より紐解く」ということの重要さを櫻井さんがおっしゃったときであった。

 政治家含め、世の語り部と称する方々の多くが「歴史の事実」を語る時に、きわめてあいまいな情報を元にされることが多い。時には、メディア報道の写しであったり、あるいは高名な作家の小説だったりする。

 確かに、話としてはそれこそ誰もが知っている作家の小説を一例にひくのはわかりやすいかもしれないが、あまりにも薄っぺらいものになってしまうことは容易に想像できる。

 やはり、事実を照査し認識を確立するためには、客観性の高い一次情報を重要視しなければならない。そのためには、「公文書」がまず第一義となる。しかし、この公文書を重視し、実際に当たっているジャーナリズムが極めて少ない。

 このことの警鐘をかつて聞いたことがあったのだが、櫻井よし子さんのご指摘も同様のものであった。

 歴史認識を確立するためには、客観性の高い一次情報を網羅しながらの分析が必要なのである。

 ご存知のとおり、やわらかい語り口で芯の強い主張を展開される櫻井さんとは、再会を約束して糸島を後にした。

 しかし、酒を飲みながらの養世さんと櫻井さんとの議論に、お隣の養世さんの同級生はたまらず、「酔えんワ...。」とつぶやいておられた。

 ゴメンナサイ。

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