敗戦の日に父を想う

2014年8月15日 (金) ─

 戦後69回目を迎える敗戦の日。

 いくぶん、夏の盛りを過ぎたと感じさせる風が吹くものの、猛暑日に達する勢いの暑さ。

 奈良県護国神社拝殿にて、奈良県出身者戦没者追悼式に朝より参列する。今年は、母の初盆と父の供養もあり、武道館の全国戦没者追悼式ではなく地元にて哀悼の誠を捧げる。

 今年の夏は、母の初盆もあり、また父の葬儀も6日に終えたばかりゆえ、法要・供養が我が家でも相次いだ。

 とりわけ、初盆を執り行うのは長男として初めてのこと。祭壇を飾り、供養の様式を整え、導師様に法要を執り行っていただくのも初めてだ。

 嫁いだ娘や、東京で仕事や大学に行っている子どもたちや親せきも集って法要を済ませると、なにやらホッとした気持ちになった。言われるように、この俗界空間に戻ってきてくれているような、そんな気持ちになる。

 迎え火を焚き、お盆が始まる。

 そして、送り火を焚いて、先祖そして母を見送る。

 いずれ、子どもたちにも伝えていかなければならないが、なんせ自身がまだまだ新米ゆえ、段取りも悪いことこの上ないけれど、父も母もそんな自分を許してくれていることだろう。

 毎年迎える、敗戦の日。

 軍人として生きる志を持って生きた父とは、ついぞ、詳細な戦争の話をすることはなかった。

 何度も、訊ねようとしてみたが、聞けなかった。

 それは、彼が自らの志としての道を敗戦によって失い、そのことをずっと抱えて生きてきたのを子ども心に感じていたからだと思う。父の口から戦争を語らせようとすることが、父の傷口をえぐるようなことに思えてならなかったのだ。

 喪主として葬儀の時に語ったご挨拶について、多くの方から言葉をいただいた。

 少し長くなって恐縮だが、父の供養と思って改めて以下に全文を記す。

 
平成26年8月6日午後1時
故馬淵俊造葬儀告別式喪主挨拶

 本日は、大変お忙しい中、また夏真の酷暑の中、父俊造の葬儀告別式に、地元地域はじめ遠方から、また各界から、多くの皆様方にご参列賜り心から感謝申し上げます。馬淵家を代表いたしまして、一言、ご挨拶申し上げます。

 父俊造は、去る8月3日午後5時10分、享年87歳にて永眠いたしました。週末ということで地元に戻っていた私がちょうど病室に居合わせたその時に、まるで眠るように静かに息を引き取りました。2月7日に、自らも病床に臥しながら母を見送った父でしたが、177日目で、母の後を追うように天へと昇って逝きました。同じ年に、半年の間に、両親を見送ることになりましたが、「仲の良い夫婦の証ですよ」と菩提寺西方寺ご住職・櫻井導師に仰っていただき、私たち家族は穏やかなあたたかい気持ちで父を見送ることができます。

 父は母と同じ昭和3年生まれ。3月6日に静岡県浜松市で馬淵恒蔵・佐輿の三男として生まれました。年の離れた兄弟の中で末っ子として自由奔放に育ったと親戚から聞いております。

 父は、父の祖父にあたる金吾を敬愛しておりました。馬淵金吾は遠州において自由民権運動家として明治14年に憲法制定・国会開設の建白書に名を連ね、また第28国立銀行創立、浜松紡績、帝国製帽設立などの公的な仕事に従事しておりました。父は祖父金吾への想いもあってか自らも幼少期から公人としての道を志すようになりました。そして、太平洋戦争開戦後、戦火が広がる中、陸軍士官学校に進み、軍人として国家に奉ずる道を歩みだしました。

 やがて戦況悪化の中、陸軍士官学校第61期生として第22中隊第2区隊に所属し、市ヶ谷から朝霞さらに秩父へと移動後、敗戦を迎えました。

 「君たちは、何があっても生きろ!」との中隊長の訓示を聞き終え、上官たちが自決の道を選択し兵舎に消えるのを最敬礼で見送り、その後銃声を耳にするまで微動だにしなかったと聞きました。父の、軍人として生きる志は、その瞬間に潰えました。

 戦後は、母と出会い、「もう戦後じゃない」と言われた時代をサラリーマンとして生き、奈良に住まいを移し、私たち二人の兄弟の父として高度経済成長期を生きぬきました。本人としては軍人として生きる自らの目標を失い、ひたすら日々のことに追われる毎日だったのではないかと思いますが、家族仲睦まじくささやかな喜びを大切にして暮らすことも人生だと受け止めていたのではないかと思います。

 明るい母と、穏やかな父、の家庭でした。

 一方、長男の私には、厳しい一面を見せる父でもありました。軍人、武人としての誇りで生きていた人だからだと思います。「渇しても盗泉の水を飲まず。熱しても悪木の陰に憩わず。」これは、「どんなに喉が渇いても盗んだ泉とされる水は飲まない。どんなに暑くとも悪い木とされる木の陰には休まない。」との意味です。

 中国の武将・陸機による漢詩「猛虎行」の一節は、公に奉ずる者の高い倫理観を示す言葉であり、そんな重い厳しい言葉を、幼い私に父は説いていました。当時は、私もよく理解できずにいましたが、今思えば馬淵家に脈々と生きる「公に奉ずる魂」を父から授けられていたのだと思います。

 晩年は、ここ奈良富雄で、一つ屋根の下に母法子、私たち夫婦、6人の孫、家内の両親の12人で暮らす日々の営みをとても大切にしてくれました。私が選挙に挑戦し敗れ、再び挑もうとする厳しい日々も、アルツハイマー病を患った母の介護や孫の幼稚園の送り迎えなどを一生懸命にしてくれました。議員になって普段は家にいない私に代わって、家族の中心に居てくれました。時には父親代わりに孫たちにも厳しく叱ることもあったようです。子どもたちは子どもたちで、食卓でのおじいちゃんの一切空気を読めない発言をいつも笑って聞き、喜んでくれていました。時には、私やヒロコから叱られた子どもたちをこっそり自分の部屋に招き入れ、孫の為に押し入れにしまっていたハイチュウを出して慰めたりもしてくれました。母と共に孫たちから愛され、ご近所の皆さんにもあたたかく接していただきました。

 末期の大腸がんがわかったのは今年の1月でした。父に残された時間は少ないと思っていましたが、「ばあさん置いて、先に逝くわけにはいかない」との言葉通り、母を見送ることができました。手術後は、「ばあさんが早く来いと言ってる」と笑って、静かにその時を待ち続ける日々でした。

 最期の時を迎えようとしていた父にこの間、私は病室で悩みながら、あることを訊ねようとしていました。

 「お父さん、僕が子どもの時から、いつも、お父さんは澄夫はダメだ、とお母さんに言っていましたね。今はどうですか?、まだまだダメですか?僕は、まだまだダメですか?」と。

 愚かなことです。そんなことを今更聞いても仕方ないのに。

 結局何も、聞けませんでした。ただただ、父の顔を見るのが精いっぱいでした。そんなことを聞きたがっている50を過ぎた息子を、父は「やはりまだまだだな」と天で笑っているかもしれません。8月3日心肺が止まった瞬間、悲しみよりも感謝の想いでいっぱいになりました。

 お父さん、ありがとう。僕たち兄弟を育ててくれてありがとう。これまで家族を守ってくれた感謝の言葉しかありませんでした。

 母の初盆供養を間もなく迎えます。天に上る父と待っていてくれた母、きっと仲良く二人していることでしょう。そして父母による、子・孫・曾孫の三世代13人の子孫を含む家族ともども、明るく、元気に暮らしてまいります。どうか、これからも、皆さまからのご指導ご鞭撻賜りますようお願い申し上げます。

 本日は父俊造の為に、ご会葬いただき誠にありがとうございました。
以上

 今週いっぱいは奈良にいることができる。

 父の遺品を整理しながら、自分なりに敗戦後の69年間に父の想いを重ねて見ながら考えてみようと思う。

敗戦の日に父を想う