ニューカマーたちの宴の終り

2006年6月6日 (火) ─

 村上ファンドの村上世彰代表が逮捕された。

 本人も、記者会見で容疑を認め前日の供述調書への署名を明らかにし、「起訴されるのは間違いない」と断言した。そして、その後、逮捕。

 容疑は証券取引法違反。インサイダー取引容疑である。

 村上代表は知人を通じて知らぬ間柄ではないが、政治の世界にいるものとして、距離をとってきた。ライブドアのニッポン放送株買占め劇でのインサイダー取引容疑、そこにおける村上代表逮捕は、ある意味一連のIT長者など財界におけるニューカマーへの大いなる警鐘となったのではないか。

 親しい上場企業創業者との話で、現在の若き経営者たちの中で第一世代と呼べる経営者と、ITバブル期などの創業者、第二世代とは大きく価値観が違う、との言葉を聞いたことがある。何でもアリ、目上の人や先輩など関係ない、とばかりにやってこられる経営者とはさすがに、一線引くとのこと。

 IT関連企業がすべてそうだとは決して言わないが、急成長遂げた企業の経営者たちのその立ち居振る舞いが、鼻白んで見られたことが少なからずあったのであろう。こうした、ニューカマーたちの投げかけたアンチテーゼとして、今回の村上容疑者の言葉は、重かった。

「金儲けは、悪いことなのか!?」

村上容疑者の会見での心情吐露の瞬間であった。

「メチャクチャ儲けたから...、儲けすぎたから嫌われた!。」

確かに頷けるような言葉でもある。

 しかし、しかしである。これらの言葉にこそ私たちは向き合って答えを見つけていかねばならないのではないか。

 私は、今でも経営者として株主価値の最大化は正しい、と思っている。

 今日までの大蔵の護送船団方式による金融支配、ならびにそれら金融機関等による株式持合いなどで企業は経営支配の安定が図られ、市場の中での一般投資家はないがしろにされてきた。株主は、「モノ言わぬ」ことが当たり前とされこの「サイレントマジョリティ」が、日本市場の秩序のようにさえ言われた。市場は公平性を欠き、歪められ、ある意味プロの手による場でしかなかった。

 バブルによって、ようやく一般(個人)投資家を引き込むことができ始めたが、逆に市場の活況は整備の遅れを招いた。その間に、経営者はよりいっそう巧妙な安定支配を考えるようになった。

 自由な競争とはおおよそ言いがたい匂いが、証券市場には常に漂っているように感じた。

 だから、ある意味村上ファンドのような存在は「必要」だったのかもしれない。結果として「必要悪」に堕していったにせよ、時代に要請されていたからこそ多くの投資家を集め巨額の利益を生み出していった。

 そして、その代表が逮捕直前にあえぎながら吐いた言葉。

「金儲けは、悪いのか!!!」

 本当によく考えなければならない。

 堀江逮捕、村上逮捕にて、安易に「市場の安定化」の看板で整備が逆行することなどがあってはならない。自由で公正な市場の整備は大命題である。

 その上で、私たちは、「金儲け」に付随する利益と社会への還元の仕方を考えねばならない。「納税している」から良いのか。「納税」こそ、最大の社会還元と言い切る人もたくさんいるだろう。しかし、納税さえしていれば、巨額の儲けは正しいのか。これも、正しい!と言い切る人もたくさんいるだろう。

 それでも、あの堀江被告や村上容疑者に対する世間の目はどういうものだったろうか。村上容疑者の言うところの、単なる「やっかみ」なのか?。この国の人々の、心のそこにあるのは、「妬み」だったのだろうか?。

 私には、そうではない気がするのである。妬み、やっかみではない、違和感とも言うべきもの。一人が、必要性を超えて「得られるだけ得ること」に突き進むことへの異質感。少なくとも私たち日本人が持ち得る価値観とのあまりの乖離。

 あるものすべてを欲しがるのではなく、むしろ少しの我慢をめいめいがする。そしてそれによって、皆が喜べるという、総和としての恵みを知る。そんなところに、価値が置かれているということではないのだろうか。

 「足るを知る」と教えられたこともあったろう、「衣食足りて礼節を知る」と語られたこともあったろう。

 私たち日本人の心に常に、「節度」という安全装置が埋め込まれていることに安心感を持つ人が、まだまだ少なくないということではないのか。だから、それが感じられないニューカマーたちを「不快」に感じてしまうのではないか。

 その意味では、「節度ある金儲け」が求められているのかもしれない。社会への還元を、実は私たちは意識の中に大命題として刷り込まれているのかもしれない。

 ニューカマーたちの宴の終りは、あらためて日本人が大事にする「価値観」を発信しなければならない期限の到来を意味している。

ニューカマーたちの宴の終り