「戦友」への誓い

2013年8月23日 (金) ─

 吉田さんの訃報を聞いたのは参院選の最中だった。厳しい情勢の中、必死で選挙対策を行っている時でもあった。お別れに行かなければ、たとえ選挙中であっても。

 そう思っていたのだが、後日に行われる告別の会へとの連絡があった。

 そして、今日、お別れの会が青山葬儀場で執り行われた。笑顔の遺影の吉田所長に、献花と共にお別れの挨拶をしてきた。

 東京電力福島第一原子力発電所の吉田昌郎所長と初めてお会いしたのは、3月26日に原発事故対策担当の総理補佐官となった直後だ。

 今でも初対面の時の吉田さんの言葉が忘れられない。

 朝からの統合本部全体会議が終わった後、吉田さんが吠えるように会議のひな壇席の方に向かって言い放った。

 もちろん議論は必要だが、議論のための議論になっていないか、現場は必死なんだ、そんな話と共に、「こんな東京の本社の会議室ではなく、現場に来てくださいよ!、見てくださいよ!」

 その言葉はひな壇席の東電幹部のみならず、政府側の我々、いや自分に言われたんだと、僕はそのとき感じた。

 「補佐官、現場は必死だ。作業員も限界に近いくらいに頑張ってくれている!」挨拶に近づいた僕に、吉田さんは食らいつくようにそう言った。

 そして、その時から僕は吉田さんと向き合うことになる。

 当時、僕は補佐官就任と同時に原発事故対策の命を受け、政府・東電統合本部に張り付き「遮へいプロジェクトチーム(PT)」の責任者となった。陸海空に漏れ出ている放射性物質を封じ込めるのがミッションだ。

 陸に散った放射性物質とチリを飛散防止剤で固化する。空へと水蒸気が漏れ出ている建屋を覆うカバリング工事を実行に移す。

 そして、海への流出。これこそが最大の課題だった。

 さらに、遮へい以外に大きな課題が降りかかる。余震だった。

 度重なるマグニチュード7.6レベルの余震で4号機の使用済燃料プールが崩落するかもしれないというリスクが浮上した。

 僕は、4号機の耐震補強工事を決断した。

 その時だ、吉田さんとは激しくやりあった。

 工事を行うためには、作業員を現場、建屋に入れなければならない。しかし、高線量で人は近づけない状況。それでも何とかして、やるしかない。

 当時の作業はすべてロボットなど無人で行うことを前提としていた。しかし、ここは有人作業が必要になる。

「補佐官、あんた、作業員に死ねというのか!」吉田さんは電話の向こうで怒鳴った。

 僕は気持ちを落ち着かせながら、言った。「そうは言ってません。人が入れるようにして、入ってください!!」

 爆発を起こした4号機5階にある燃料プールには、1535体の燃料が入っていた。プールが崩壊すれば、終わりだ。最悪のシナリオ(近藤シナリオ)に突入してしまう恐れがある。それを避けるために耐震工事が何としても必要だった。

 吉田さんとは激論を交わしながらも、やがて建屋の隙間からロボットを入れてがれきを取り除き線量を下げる作業をやってみると報告してきてくれた。作業員の安全を考えながらも、どうやったらできるか、最善の策を懸命に考えてくれた。

 やがて、瓦礫除去により線量は下がり、見事に有人作業による耐震補強工事が完遂した。

 そして事故から3ヶ月、6月11日に僕は政府の人間としては初めて4号機に入った。耐震補強工事を視認確認するために。

 吉田さんは免震重要棟で、僕を見るや、「補佐官、見てくれとは言ったけど、入れとは言ってないです。」と言った。

 僕が笑顔で、「責任者だから!」と言うと、仕方ないなぁという顔を見せて、自分も入ります、と黙々と着替えだした。お互いに、余分な言葉を発する必要もなかった。

 必死の思いがそこにあった。

 同時に、地下水の流入を止めるために、原発周辺の地下の四方を遮水壁で覆う遮へいプロジェクトを実施するため、境界画定を行うことについても、当初、「現場の工事が干渉するから」との理由で渋っていた吉田さんも「分かった」と言って境界画定にも立ち会ってくれた。

 共に、闘ってきたとの思いがよみがえる。

 しかし、6月27日僕は補佐官の任を解かれ、その後、地下遮水壁はいつの間にか四方を囲う案はひっくり返され、消え失せていった。

 その結果、現在、1日300tの放射性汚染水が海に流出し続けている。

 遺影の吉田さんが「補佐官、何やってんだよ!」と語りかけているような気がして仕方がない。

 今、政府と東電がやろうとしている凍土方式遮水壁も地下水バイパスもごまかしに過ぎない。

 あれから二年半が過ぎ、ベストの方策を失った今、政治の責任は、ワーストの選択をさせないことだ。

 「戦友」の、吉田さんに、心から誓った。

 心から、ご冥福をお祈りいたします。

「戦友」への誓い